半蔵がそのさびしい境涯《きょうがい》の中で、古歌なぞを紙の上に書きつけ、忍ぶにあまる昔の人の述懐を忍んでわずかに幽閉中の慰めとするようになったのも、その時からであった。お粂が伏見屋から分けてもらって来た紙の中には、めずらしいものもある。越前《えちぜん》産の大高檀紙《おおたかだんし》と呼ぶものである。先代伊之助あたりののこして置いて行ったものと見えて、ちょっとこの山家で手に入りそうもない品であるが、ほどのよい古びと共に、しぼの手ざわりとてもなかなかにゆかしい料紙である。半蔵は思うところをその紙の上に書きつけたのであった。
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以[#下]不[#レ]勝[#二]憂国之情[#一]濺[#二]慷慨之涙[#一]之士[#上]、
為[#二]発狂之人[#一]。豈其不[#レ]悲乎。無識人之
眼亦已甚矣。
[#ここから20字下げ]観斎
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観斎とは、静の屋あるいは観山楼にちなんだ彼が晩年の号である。お粂の目には、父が筆のはこびにすこしの狂いも見いだされなかった。墨痕淋漓《ぼっこんりんり》としたその真剣さはかえって彼女の胸に迫った。
お粂も実はそう長く馬籠にとどまれないで、二、三日の予定で父を見舞いに来た人であった。めったにひとりで家を離れたためしのない彼女はその方のことも心にかかり、それに馬籠と木曾福島との間は途中一晩は泊まらねばならなかったから、この往復だけでも女の足には四日かかった。そこで生家《さと》に着いた三日目の午後には彼女は父にも暇乞《いとまご》いして、せめて妻籠泊まりで帰りの路《みち》につこうとしたが、この暇乞いする機会をとらえることがまた容易でなかった。というのは、父の見舞いに来る人も、来る人も、しまいには皆隠れるように消えて行くというふうで、その父のさびしがりようがお粂にも暇を告げさせないからであった。
結局、お粂もまた隠れるようにして父から隠れて行くのほかはなかったのである。彼女はそれとなく暇乞いのつもりで、しばらく座敷牢の外に時を送った。秋はもはや木小屋の周囲にも深い。父の回復を祷《いの》ろうとして裏の稲荷《いなり》へ願掛けした母お民は露にぬれたお百度の道を踏むに余念もなく、畠《はたけ》へ通う下男の佐吉も病める旧主人を思い顔である。その辺はお粂が弟たちにとっても幼い時分のよい隠れ場処であったところで、木小屋の前の空地《あきち》、池をおおう葡萄棚《ぶどうだな》、玉すだれや雪の下なぞの葉をたれる苔蒸《こけむ》した石垣《いしがき》から、熟した栗《くり》の落ちる西の木戸の外の稲荷の祠《ほこら》のあたりへかけて、かつて森夫や和助の遊び戯れた少年の日の姿をお粂の胸によび起こさないものはないくらいのところである。まったく外界との交渉を絶たれた父が閉じこもった座敷牢からつくづくときき入るのは、この古い池へ来る村雨《むらさめ》の音であろうかなぞと彼女は思いやった。彼女は木小屋の内にある中央の土間を通り抜けて裏口の方へも出て見た。そこに薄日のもれた竹藪《たけやぶ》は父の心をしずめるところを通り越して、北側の窓へおおいかぶさったような陰気なところだ。どうかするとはげしい風雨にねて木小屋の屋根板ぐらいははね飛ばすほどの力を持った青々とした竹の幹が近くにすくすくと群がり茂っているところだ。彼女はそこいらに落ち重なる竹の枯れ葉にも目をやって、父のいる座敷牢の南側の前まで引き返した。その時だ。半蔵は大きく紙に書いた一文字を出して、荒い格子越しにそれをお粂に示した。
「熊《くま》。」
現在の境涯をたとえて見せたその滑稽《こっけい》に、半蔵は自分ながらもおかしく言い当てたというふうで、やがておのれを笑おうとするのか、それとも世をあざけろうとするのか、ほとんどその区別もつけられないような声で笑い出した。笑った。笑った。彼は娘の見ている前で、さんざん腹をかかえて笑った。驚くべきことには、その笑いがいつのまにか深い悲しみに変わって行った。
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きりぎりす啼《な》くや霜夜のさむしろにころも片敷き独《ひと》りかも寝む
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この古歌を口ずさむ時の彼が青ざめた頬《ほお》からは留め度のない涙が流れて来た。彼は暗い座敷牢の格子に取りすがりながら、さめざめと泣いた。お粂はただただその周囲をめぐりにめぐって、そこを立ち去るに忍びなかったのである。
四
十一月にはいって、美濃落合《みのおちあい》の勝重《かつしげ》は旧《ふる》い師匠を見舞うため西から十曲峠《じっきょくとうげ》を登って来た。駅路時代のなごりともいうべき石を敷きつめた坂道を踏んで、美濃と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる木曾路《きそじ》の西の入り口に出た。路傍の両側に立つ一里|塚《づか》の榎《えのき》も、それを見返らずには通り過ぎられないほど彼には親しみの深いものになっていた。
半蔵乱心のうわさが美濃路の方へも知れて行った時、だれよりも先に馬籠へかけつけたのは勝重であったが、その後の半蔵が容体も心にかかって、また彼はこの道を踏んで来たのであった。その彼が峠の上の新茶屋で足を休めて行こうとするころはかれこれもう昼時分に近い。彼は茶屋の軒をくぐって、何か有り合わせのもので茶漬《ちゃづ》けを出してもらおうとすると、亭主《ていしゅ》が季節がらの老茸《ろうじ》でも焼こうと言っているところへ、ちょうど馬籠の方からやって来る中津川の浅見老人(半蔵の旧友、景蔵のこと)にあった。この人も半蔵の病んでいると聞くのに心を痛めて、久しぶりで馬籠旧本陣を訪《たず》ね来たその帰りがけであるとのこと。
勝重は景蔵を茶屋に誘い入れて、さしむかいに腰掛けた。景蔵ももはや杖《つえ》をそこに置いて馬籠の方のことを語り出すほどの年配である。さすがに景蔵はあの木小屋のわびしいところに旧友を見る気にはなれなかったと言って、裏二階に住む青山の家の人たちに見舞いを言い入れ、病人の容体を尋ねるだけにとどめて来たという。そういう景蔵は中津川をさして帰って行く人、勝重は落合からやって来た人であるが、この二人《ふたり》は美濃の方で顔を合わせる機会もすくなくはなく、そのたびに半蔵のうわさの出ないこともなかったくらいの間がらだ。発狂の人として片づけてしまえばそれまでだが、どうしてあの半蔵が馬籠にも由緒のある万福寺のようなところを焼き捨てる心になったろうとは、これまでとても二人の間に語られ来た謎《なぞ》であった。
勝重は今さらのように心の驚きを繰り返すというふうで、やがて茶屋の亭主がそこへ持ち運んで来た焼きたての老茸《ろうじ》を景蔵にすすめ、自分でも昼じたくをしながら話した。勝重にして見ると、あの「馬籠のお師匠さまが」と思うと、そんなところへ落ちて行った半蔵が運命の激しさを考えるたびに、まるでうそのような気もすると思うのであった。まったく思いがけないことが彼の目の前に起こって来たのだ。彼は少年期から青年期へかけての三年をあの馬籠旧本陣に送った日のことを思い出し、そこの旧主人を暗い座敷牢にすわらせるまでの家人の驚きを思いやって、おそらくその中でも一番驚いたのはお師匠さまの奥さんであったろうと想像するのであった。彼も、日ごろの多忙にかまけて、たまにしかあの静《しず》の屋《や》を訪《たず》ねることもしなかった。でも、半蔵の顔を見るたびに、旧師も年を取れば取るほどよいところへ出て行ったように想《おも》い見ていた。こんな乱心が青山半蔵の最期とは彼には考えられもしなかった。
勝重は言った。
「浅見さん、あなたの前ですが、あなたがたがあの平田先生のあとを追いかけたようには、あたしどもはお師匠さまのあとを追いかけることもしませんでしたね。その熱心がわたしどもには欠けていたんです。もっとわたしどもがお師匠さまと一緒に歩いたら、こんな過《あやま》ちはさせずに済んだかもしれません。」
そういう彼はさも残念なというこころもちを顔に表わしていたが、しかも衷心の狼狽《ろうばい》は隠そうとして隠せなかった。岩崎長世、あるいは宮川寛斎なぞの先輩について、はじめて国学というものに目をあけた半蔵が旧《ふる》い学友のうち、中津川の香蔵もすでに故人となって、今は半蔵より十年ほども早く生まれた景蔵だけが残った。この平田門人は代々中津川の本陣で、もっぱら人馬郵伝の事を管掌し、東山道中十七駅の元締《もとじめ》に任じて来た人で、維新間ぎわまでは同郷の香蔵と相携えて国事に奔走し、あるいは京都まで出て幾多の政変の渦《うず》の中にも立ち、あるいは長州人士を引いていわゆる中津川会議を自宅に開かせ、あるいはまた幕府の注意人物であった多くの志士を自宅にかばい置くなど、百方周旋していたらないところのないくらいであったが、いよいよ王政復古の日を迎えると共に全く草叢《くさむら》の中に身を隠してしまったのもこの景蔵である。当年の手記、奏議、書翰《しょかん》等の類に至るまで深くしまい込んでしまって、かつてそれを人に示したこともない。明治元年に権令《ごんれい》林左門が笠松《かさまつ》県出仕を命じたが、景蔵は病ととなえて固く辞退した。それでも許されなかったので、三日事をみたぎり、ぶらりと京都の方へ出かけて行って、また仕えなかった。同じく二年に太政官《だじょうかん》は彼を弾正台内監察《だんじょうだいないかんさつ》に任じた。それもおのれの志ではないとして、拝命後数か月で辞し去ってしまった。明治九年から十二年まで、彼は特に選ばれて岐阜《ぎふ》県|権《ごん》区長の職にあったが、その時ばかりは郷党子弟のためであるとして大いに努めることをいとわなかった。すべてこのたぐいだ。この人から見ると、故寛斎老人が生前によく半蔵のことを言って、半蔵の一本気と正直さと来たら、一度これが自分らの行く道だと見さだめをつけたら、それを改めることも変えることもできないのがあの半蔵だと評した言葉も想《おも》い当たる。景蔵、半蔵、この二人は維新後互いに取る途《みち》も異なっていた、あれほど祖先を大切にする半蔵がその祖先の形見とも言うべき万福寺本堂に火を放とうとしたというは、その実、何を焼こうとしたのか、平田同門の旧《ふる》い友人にすらこの謎《なぞ》ばかりは解けなかった。
しかし、座敷牢へ落ちて行くまでの半蔵が心持ちをたどって見ようとするものも、この旧い友人のほかにない。景蔵は勝重のような後進の者を前に置いて、何もおおい隠そうとする人ではなかった。彼に言わせると、古代復帰の夢想を抱いて明治維新の成就《じょうじゅ》を期した国学者仲間の動き――平田|鉄胤《かねたね》翁をはじめ、篤胤《あつたね》没後の門人と言わるる多くの同門の人たちがなしたこと考えたことも、結局大きな失敗に終わったのであった。半蔵のような純情の人が狂いもするはずではなかろうかと。
平素まことに言葉もすくなく、口に往時を語ろうともせず、ただただあわれ深くこの世を見まもって来たような景蔵からこんなに胸をひろげて見せられたことは、ちょっと勝重には意外なくらいだった。年老いたとは言いながらもまだ記憶の確かなのも景蔵だ。勝重はこの老人をつかまえて種々《さまざま》なことを問い試みようとした。たとえば、民間にいて維新に直面した景蔵のような人は実際この大きな変革をどう思っているかの類《たぐい》だ。その時の景蔵の答えに、維新の見方も人々の立場立場によっていろいろに分かれるが、多くの同時代の人たちが手本となったものはなんと言っても大化《たいか》の古《いにしえ》であった。王政復古の日を迎えると共に太政官を置き、その上に神祇官《じんぎかん》を置いたのも、大化の古制に帰ろうとしたものである。人も知るごとく、この国のものが維新早々まッ先に聞きつけたのは武家の領土返上という声であったが、そればかりでなく、僧侶《そうりょ》の勢力もまた覆《くつがえ》さなければならないと言われた。この二つの声はほとんど同時に起こった。というのは、彼ら僧侶が遠く藤原《ふじわら》氏時代以来の朝野の保護に慣れて、不相応な寺領を所有するに至った
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