性質の善良なことや、人を待つのに厚いことなぞは半蔵自身ですら日ごろ感謝していいと言っていたくらいだからである。たとえば、彼岸の来るころには中日までに村じゅうを托鉢《たくはつ》して回り、仏前には団子《だんご》菓子を供えて厚く各戸の霊をまつり、払暁《ふつぎょう》十八声の大鐘、朝課の読経《どきょう》、同じく法鼓なぞを欠かしたことのないのもあの和尚である。またたとえば、観音堂《かんのんどう》へ念仏に見える町内の婆《ばば》たちのためには茶や菓子を出し、稲荷大明神《いなりだいみょうじん》を祭りたいという若い衆のためには寺の地所を貸し与え、檀家《だんか》の重立ったところへは礼ごころまでの般若札《はんにゃふだ》、納豆《なっとう》、あるいは竹の子なぞを配ることを忘れないで、およそ村民との親しみを深くすることは何事にかぎらずそれを寺の年中行事のようにして来たのもあの和尚である。こんなに勤行《ごんぎょう》をおこたらない松雲のよく護《まも》っている寺を無用な物として、それを焼き捨てねばならないというは、ほとほとだれにも考えられないことであった。
 山口村の杏庵老人は祭りの最中にも旧本陣へ駕籠《かご》を急がせて来た。半蔵のことを心配して前日以来かわるがわる店座敷に付ききりでいる親類仲間のまちまちな意見も、老人の診断一つで決するはずであった。万事のみ込み顔な杏庵は早速半蔵の居間へ通り、脈を取ってしらべて見たが、一度や二度の診察ぐらいでそうはっきりしたことも医師には言えないものだとの挨拶《あいさつ》である。ただ杏庵は日ごろ好酒家の半蔵が飲み過ぎの癖をよく承知していたし、それにその人の不眠の症状や顔のようすなぞから推して、すくなくも精神に異状のあるものと認め、病人の手当てを怠らないようにとの注意を与えた。眠り薬を調合して届けるから、それを茶の中へ入れて本人には気づかれないように勧めて見てくれよとの言葉をも残した。ところが、かんじんの本人は一向病気だとも思っていない様子で、まるで狐《きつね》にでもつままれるような顔をしながら医師の診察を受けたということが知れわたると、村のものが騒ぎ出した。もしお師匠さまが看護のものの目を盗んで部屋《へや》から逃げ出しでもしようものなら、この先どんなむちゃをやり出すかしれたものではないと言うものがある。あの万福寺での放火の時、もしだれもお師匠さまを抱きとめるものがいなかったとしたら、火はたちまち本堂の障子に燃え上がったであろう、万一その火が五百二十|把《ぱ》からの萱《かや》をのせた屋根へでも燃え抜けたが最後、仏壇や位牌堂《いはいどう》はもとより、故伏見屋金兵衛が記念として本堂の廊下に残った大太鼓も、故|蘭渓《らんけい》の苦心をとどめた絵襖《えぶすま》も、ことごとく火となったであろう、そうなれば客殿、方丈、庫裏《くり》の台所も危ない、ひょっとすると寺の土蔵まで焼け落ちたかもしれない、こんな事が公然と真昼間に行なわれて、しかもキ印《じるし》のする事でないとしたら、自分なぞは首をくくって死んでしまいたいと言うものがある。幸いこの放火は大事に至らなかったようなものの、警察の分署へ聞こえたら必ずやかましかろう、もし青山の親戚《しんせき》一同にこの事を内済にする意向があるなら、なぜ早くお師匠さまを安全な場所に移し、厳重な見張りをつけ、村のもの一同もまた安心して眠られるような適当な方法を取らないのかと息まくものもある。
 半蔵の従兄《いとこ》、栄吉は親類仲間でも決断のある人である。事ここに至っては栄吉も余儀ない場合であるとして、翌朝は早くから下男の佐吉に命じ裏の木小屋の一部を片づけさせ、そこを半蔵が座敷牢《ざしきろう》の位置と定めた。早速村の大工をも呼びよせて、急ごしらえの高い窓、湿気を防ぐための床張《ゆかば》りから、その部屋に続いて看護するものが寝泊まりする別室の設備まで、万端手落ちのないように工事を急がせた。栄吉はまた、町の重立った人々にも検分に来てもらって、木小屋のなかの西のはずれを座敷牢とし、用心よくすべきところには鍵《かぎ》をかけるようにしたことなぞを説き明かした。なにしろ背は高く、足袋《たび》は図《ず》なしと言われるほど大きなものをはき、腕の力とても相応にある半蔵のような人をいれる場処とあって、障子を立てる部分には特にその外側に堅牢な荒い格子《こうし》を造りつけることにした。

       二

 座敷牢《ざしきろう》はできた。そこで栄吉は親戚《しんせき》旧知のものを旧本陣の一室に呼び集めてそのことを告げ、造り改めた裏の木小屋の一部にはすでに畳を入れるまでの準備もととのったことを語り、さてそちらの方へ半蔵を導くには、どう彼を説得したものかの難題を一同の前に持ち出した。この説得役には笹屋庄助《ささやしょうすけ》が選ばれた。庄助なら半蔵の気に入りで、万福寺境内からも彼を連れ戻《もど》って来たように、この場合とても彼を言いなだめることができようということで。
 いかな旧|組頭《くみがしら》の庄助もこの役回りには当惑した。庄助が店座敷の方へ行って見ると、ちょうど半蔵はひとりいる時で、円形《まるがた》の鏡なぞを取り出し、それに息を吹きかけ、しきりに鏡の面をふいているところであった。それはずっと以前に彼の手に入れた古鏡で、裏面には雲形の彫刻などがしてあり、携帯用の紐《ひも》の付いたものである。この旧《ふる》い屋敷の母屋《もや》を医師小島拙斎に貸し渡すようになってからも、上段の間だけは神殿として手をつけずにあって、その床柱の上に掛けてあったものである。長いこと磨師《とぎし》の手にもかけないで、うっちゃらかしてあったのもその鏡である。
「庄助さ、お互いに年を取ると顔の形も変わるものさね。なんだかこの節は自分の顔が自分じゃないような気がする。」
 半蔵はあまり周囲のものが自分を病人扱いにするので、古い鏡なぞを取り出して見る気になったというふうに、それを庄助に言って見せた。彼はよくも映らない自分の姿を見ようとして、しきりにその曇った鏡に見入っていた。そして、言葉をついで、
「そう言えば、この二、三日はおれも弱ったぞ。恐ろしいやつに襲われるような気がして、夜もろくろく休めなかった。」
「お師匠さま、お前さまはよく敵が来るなんて言わっせるが、そんなものがどこにおらすか。」と庄助は言う。
「そりゃ、お前たちに見えなくても、おれの目には見える。あいつはいろいろな仮面《めん》をかぶって来るやつだ。化けて来るやつだ。どうして、油断もすきもあったもんじゃないぞ。恐ろしい、恐ろしい――庄助さ、大きな声じゃ言えないが、この古い家の縁の下にだってあの化け物は隠れているよ。」
 そう言って、半蔵はなおも鏡の面を根気にふきながら、相手の庄助に身をすくめて見せた。
 その時まで庄助は栄吉らから頼まれて来たことをそこへ切り出そうとして、しかもそれを言い得ないでいた。庄助は正直一徹で聞こえた男で、こんな場合に一策を案じるというふうの人ではなかったから、うまいことを言って半蔵を連れ出すつもりはもとよりなかったが、しかし裏の木小屋の方に彼を待ち受けるものが座敷牢とは言いじょう、一面にはそれは病室に相違ないから、その病室での養生《ようじょう》を言いたてて、それによって半蔵を動かそうとした。この庄助としては、ただただ半蔵の健康状態について村のもの一同心配していることを告げ、すでに病室の用意のできていることを語り、皆の行けというところへ半蔵にもおとなしく行ってもらったら、薬には事を欠かさせまいし、日ごろお師匠さまの世話になったものがかわるがわる看護に当たろうからと、頼むようにするほかの手はなかった。庄助は幾度か躊躇《ちゅうちょ》したあとで、そのことを半蔵の前に言い出した。
「ふうん。庄助さ、お前までこのおれを病人扱いにするのかい。そんな話をきくとおれは可笑《おか》しくなる。」とは半蔵の返事だ。
「でも、お師匠さまは御自分だって、気分が悪いぐらいのことは思わっせるずら。」
「いや、おれはそんな病気じゃないぞ。」
 と答えて、半蔵は聞き入れなかった。


 実に急激に、半蔵の運命は窮まって行った。栄吉らは別室で庄助の返事を待っていたが、その庄助が店座敷からむなしく引き返して行って、容易には親類仲間の意見に服しそうもない半蔵の様子を伝えると、いずれも顔を見合わせて、ほとほと彼|一人《ひとり》の処置にこまってしまった。旧|問屋《といや》の九郎兵衛をはじめ、町内の重立った旦那衆にも集まってもらって、広い囲炉裏ばたに続いた寛《くつろ》ぎの間《ま》ではまたまた一同の評定があった。何しろ旧い漢法の医術はすたれ、新しい治療の方法もまだ進まなかった当時で、ことに馬籠のような土地柄では良医の助言も求められないままに、この際半蔵のからだに縄《なわ》をかけるほどの非常手段に訴えてまでも座敷牢に引き立て、一方には彼の脱出を防ぎ、一方には狼狽《ろうばい》する村の人たちを取りしずめねばならないということになった。これは勢いであって、その座に集まる人々にはもはや避けがたく思われたことである。ところが、だれもお師匠さまを縛るものがない。その時、旧宿役人仲間でも一番年下に当たる蓬莱屋《ほうらいや》の新助が進み出て、これは宗太を出すにかぎる、宗太なら現に青山の当主であるからその人にさせるがいい、お師匠さまも自分の相続者までが病気と認めると聞いたら我を折るようになるだろうと言い出した。以前から旧本陣に出入りの百姓らにも手伝わせること、日ごろ二十何貫の大兵《だいひょう》肥満を誇り腕力のたくましいことにかけては町内に並ぶもののない問屋九郎兵衛のごとき人にはことに見張りに働いてもらうこと、それらはすべて馬籠での知恵者と聞こえた新助が考案に出た。
 いよいよ一同の評議は一決した。そのうちに秋の日も暮れかかった。栄吉らの勧めとあって、青山の家族の人々も仲の間に立ち会えという。このことを聞いたお民などは腰を抜かさないばかりに驚いて、よめのお槇《まき》に助けられながらかろうじて足を運んだ。そこへ半蔵が店座敷から清助に連れられて来た。
「お父《とっ》さん、子が親を縛るというはないはずですが、御病気ですから堪忍《かんにん》してください。」
 と半蔵の前にひざまずいて言ったのは宗太だ。
 今や半蔵を縛りに来たものは現在のわが子、血につながる親戚、かつて彼が学問の手引きした同郷の人々、さもなければ半生を通じて彼の望みをかけた百姓たちである。彼はハッとした。
「お前たちは、おれを狂人《きちがい》と思ってくれるか。」
 彼は皆の前にそれを言って、思わずハラハラと涙を落とした。その時、栄吉の手から縄を受け取った宗太が自分の前に来てうやうやしく一礼するのを見ると、彼はなんらの抵抗なしに、自分の手を後方《うしろ》に回した。そして子の縄を受けた。
 九月末の夕やみが迫って来ている中を母屋《もや》から木小屋へと引き立てられて行ったのも、この半蔵である。裏の土蔵の前あたりには彼を待ち受ける下男の佐吉もいた。佐吉は暗い柿《かき》の木の下にしゃがみ、土の上に片膝《かたひざ》をついて、変わり果てた旧主人が通り過ぎるまではそこに頭をあげ得なかった。

       三

 植松の家に嫁《かたづ》いて行っているお粂《くめ》がこの報知《しらせ》に接して、父の見舞いに急いで来たのは、やがて十月の十日過ぎであった。彼女が夫の弓夫もすでに木曾福島への帰参のかなったころで、長い留守居を預かって来た大番頭をはじめ小僧たちにまで迎え入れられ、先代|菖助《しょうすけ》がのこした屋敷の大黒柱の下にすわり、大いに心を入れ替えて家伝製薬の業に従事するという時であった。この馬籠訪問には、彼女はめったに離れたことのない木曾福島の家を離れ、子供も連れずであった。ただ商用で美濃路《みのじ》まで行くという薬方《くすりかた》の手代に途中を見送ってもらうことにした。
「あゝ、お父《とっ》さんもとうとう狂っておしまいなすったか。」
 その考えは、駒《こま》ヶ嶽《たけ》も後方《うしろ》に見て木曾路
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