れることができない。「訴人だ、訴人だ」と言って互いに呼びかわした人たちの声はまだ彼の耳にある。何か不敬漢でもあらわれたかのように、争って彼の方へ押し寄せて来た人たちの目つきはまだ彼の記憶に新しい。けれどもそういう大衆も彼の敵ではなかった。暗い中世の墓場から飛び出して大衆の中に隠れている幽霊こそ彼の敵だ。明治維新の大きな破壊の中からあらわれて来た仮装者の多くは、彼にとっては百鬼夜行の行列を見るごときものであった。皆、化け物だ、と彼は考えた。
 この世の戦いに疲れた半蔵にも、まだひるまないだけの老いた骨はある。彼はわき上がる深い悲しみをしのごうとして、たち上がった。ひらめき発する金色な眼花の光彩は、あだかも空際《くうさい》を縫って通る火花のように、また彼の前に入り乱れた。彼は何ものかを待ち受けるような態度をとって震えた。
「さあ、攻めるなら攻めて来い。」


 もはや、二百十日もすでに過ぎ去り、彼岸《ひがん》を前にして、急にはげしい夕立があるかと思うと、それの谷々を通り過ぎたあとには一層|恵那山《えなさん》も近くあざやかに見えるような日が来た。農家では草刈りや田圃《たんぼ》の稗取《ひえと》りなぞにいそがしいころである。午後に一人の百姓が改まった顔つきで半蔵を見に来た。旧本陣時代には青山の家に出入りした十三人の百姓の中の一人だ。
「お師匠さまや先の大旦那《おおだんな》には、格別ひいきにしていただいたで。」
 とその百姓は前置きをして、ある別れの心を告げに来た。聞いて見ると、その男は年貢米《ねんぐまい》三斗七升に当たる宅地を二年前に宗太から買い取る約束をしたもので、代金二十五円九十銭も一時には支払えないところから、内金としてまず五円九十銭だけを納め、残り二十円も追い追いと支払って、その年の九月で宅地も完全にその男の所有に帰し、売券をも請け取ったとのこと。隠居の半蔵にそれをことわるのも異なものだが、一言の挨拶《あいさつ》なしに旧主人と手をわかつには忍びかねるという。
「何か用があったら、いつでもそう言ってよこしておくれなんしょや。兼吉や桑作同様に、おれも手伝いに来てあげる。はい、長々お世話さまになりました。」
 との言葉をも残した。その男のいう兼吉や桑作も、薬師道の上の畑とか、あるいは裏畑とかを宗太から買い取った百姓仲間だ。その時になって見ると、青山家親類会議の結果として永遠維持の方法を設けた家法改革とは名ばかり、挨拶に来る出入りの百姓が置いて行く言葉まで、半蔵の身に迫らないものはない。
 夕方に、半蔵は静の屋の周囲を一回りして帰って来た。夕飯後、二階に上がって行って見ると、空には星がある。月の出もややおそくなったころであったが、青く底光りのするような涼しい光が宵《よい》の空を流れている。その時の彼は秋らしく澄み渡って来た物象の威厳に打たれて、長い時の流れの方に心を誘われた。先師篤胤ののこした忘れがたい言葉も、また彼の胸に浮かんで来た。
「一切は神の心であろうでござる。」
 彼はおのれら一族の運命をもそこへ持って行って見た。空の奥の空、天の奥の天、そこにはあらわれたり隠れたりする星の姿があだかも人間歴史の運行を語るかのように高くかかっている。あそこに梅田雲浜《うめだうんぴん》があり、橋本|左内《さない》があり、頼鴨崖《らいおうがい》があり、藤田東湖《ふじたとうこ》があり、真木和泉《まきいずみ》があり、ここに岩瀬肥後《いわせひご》があり、吉田松陰があり、高橋|作左衛門《さくざえもん》があり、土生玄磧《はぶげんせき》があり、渡辺崋山《わたなべかざん》があり、高野長英があると指《さ》して数えることができた。攘夷《じょうい》と言い開港と言って時代の悩みを悩んで行ったそれらの諸天にかかる星も、いずれもこの国に高い運命の潜むことを信じないものはなく、一方には西洋を受けいれながら一方には西洋と戦わなかったものもない。この国維新の途上に倒れて行った幾多の惜しい犠牲者のことに想《おも》いくらべたら、彼半蔵なぞの前に横たわる困難は物の数でもなかった。彼はよく若い時分に、お民の兄の寿平次から、夢の多い人だと言ってからかわれたものだが、どうして[#「どうして」は底本では「どうし」]こんなことで夢が多いどころか、まだまだそれが足りないのだ、と彼には思われて来た。
 月も上った。虫の声は暗い谷に満ちていた。かく万《よろ》ずの物がしみとおるような力で彼の内部《なか》までもはいって来るのに、彼は五十余年の生涯をかけても、何一つ本当につかむこともできないそのおのれの愚かさ拙《つた》なさを思って、明るい月の前にしばらくしょんぼりと立ち尽くした。

       四

「お師匠さま、どちらへ。」
 そこは馬籠《まごめ》の町内から万福寺の方へ通う田圃《たんぼ》の間の寺道だ。笹屋《ささや》の庄助《しょうすけ》と小笹屋の勝之助の二人が半蔵を見かけて、声をかけた。
「おれか。おれはこれからお寺へ行くところさ。」
「お寺へなし。」
「お前さまもまた、おもしろい格好をして行かっせるなし。」
 こんな言葉も半蔵と庄助らの間にかわされた。半蔵は以前の敬義学校へ児童《こども》を教えに通った時と同じような袴《はかま》を着け、村夫子《そんふうし》らしい草履《ぞうり》ばきで、それに青い蕗《ふき》の葉を頭にかぶっている。
「今、ここへ来る途中で、おれは村の子供たちにあった。その子供たちが蕗《ふき》の葉をかぶって遊んでいたんで、おれも一つもらって、頭へ載せて来たさ。」
 と半蔵は至極《しごく》大まじめだ。さびしさに浮かれる風狂の士か。蓮《はす》の葉をかぶって吟じ歩いたという渡辺|方壺《ほうこ》(木曾福島の故代官山村良由が師事した人)のたぐいか。半蔵のは、そうでもなかった。そんなトボけた格好でもしなければ、寺なぞへ行かれるものではないという調子だった。庄助と勝之助とはふき出さないばかりにおかしさをこらえて、何のための万福寺訪問かと尋ねる。
「ええ、うるさく物をききたがる人たちだ。そんなら言って聞かせるが、おれはこれから行って寺を焼き捨てる。あんな寺なぞは無用の物だ。」
 との半蔵の答えだ。これには庄助も勝之助も、半蔵が戯れているとしか思えなかった。九月も下旬になったころのことで、ちょうど馬籠は秋の祭りの前日にあたる。荒町にある村社|諏訪《すわ》分社の禰宜《ねぎ》松下千里はもとより、この祭りを盛んにすることにかけては神坂《みさか》村小学校の訓導小倉啓助が大いに力瘤《ちからこぶ》を入れている。というのは、この訓導はもともと禰宜の出身だからであった。子供にはそろいの半被《はっぴ》を着せよ、囃子《はやし》仲間は町を練り歩け、村芝居《むらしばい》結構、随分おもしろくやれやれと言い出したのも啓助だ。こんな熱心家がある上に、一年に一度の祭りの日を迎えようとする氏子《うじこ》連中の意気込みと来たら、その楽しさは祭礼当日よりも、むしろそれを待ち受ける日にあるかのよう。笛だ三味線《しゃみせん》だと町内の若者は囃子のけいこに夢中になっている時で、騒がしくにぎやかな太鼓の音が寺道までも聞こえて来ている。
 庄助や勝之助はこんな祭りのしたくを世話するからだではあったが、しかし半蔵の言葉が気にかかって、まさか彼が先祖青山道斎のこの村のために建立した由緒《ゆいしょ》の深い万福寺を焼き捨てに行くとは真《ま》に受けもしなかったが、なお二人《ふたり》してそのあとをつけた。馬籠言葉でいう小山の「そんで」(背後)まで行くと、寺道はそこで折れ曲がって、傾斜の地勢を登るようになる。蕗《ふき》の葉をかぶった半蔵の後ろ姿は、いつのまにか古い杉《すぎ》の木立ちのかげに隠れた。
 山門の前の石段を踏んで寺の境内へ出て見た時の庄助らの驚きはなかった。本堂の正面にある障子の前に立って袂《たもと》からマッチを取り出す半蔵をそこに見つけた。
「気狂《きちが》い。」
 思わず見合わせた庄助らの目がそれを言った。その時、半蔵の放った火が障子に燃え上がったので、驚きあわてた勝之助はそれを消し止めようとして急いで羽織《はおり》を脱いだ。人を呼ぶ声、手桶《ておけ》の水を運ぶ音、走り回る寺男や徒弟僧などのにわかな騒ぎの中で、半蔵はいちはやくかけ寄る庄助の手に後方《うしろ》から抱き止められていた。放火も大事には至らなかったが、半焼けになった障子は見るかげもなく破られ、本堂の前あたりは水だらけになった。この混雑が静まった時になっても、まだ庄助は半蔵の腕を堅くつかんだまま、その手をゆるめようとはしなかった。
[#改頁]

   終の章

       一

 とりあえず、笹屋庄助《ささやしょうすけ》と小笹屋勝之助《こざさやかつのすけ》の二人《ふたり》は青山の本家まで半蔵を連れ戻《もど》った。ちょうど旧本陣の母屋《もや》を借りて住む医師小島|拙斎《せっさい》は名古屋へ出張中の時であり、青山の当主宗太も木曾《きそ》福島の勤め先の方で馬籠《まごめ》には留守居の家族ばかり残る時であったが、これは捨て置くべき場合ではないとして、親戚《しんせき》旧知のものがにわかな評定《ひょうじょう》のために旧本陣に集まった。とにもかくにも宗太に来てもらおうと言って、木曾福島へ向け夜通しの飛脚に立つものがある。一同は相談の上、半蔵その人をば旧本陣の店座敷に押しとどめ、小用に立つ時でも見張りのものをつけることにした。
 西|筑摩《ちくま》の郡書記として勤め先にあった宗太はこの通知に接し、取るものも取りあえず木曾路を急いで来て、祭りの日の午後に馬籠に着いた。彼は栄吉や清助らの意見に聞き、一方には興奮する半蔵をなだめ、一方にはこれ以上の迷惑を村のものにかけまいとした。一村の父というべき半蔵にも万福寺の本堂へ火を放とうとするような行ないがあって見ると、周囲にあるものは皆驚いてしまって、早速《さっそく》山口村の医師|杏庵《きょうあん》老人を呼び迎えその意見を求めることに一致した。一同のおそれは、献扇《けんせん》事件以来とかくの評判のある半蔵が平常《ふだん》の様子から推して、いよいよお師匠さまもホンモノかということであった。


 こんな取り込みの中で、秋の祭礼は進行した。青山の家に縁故の深い清助などは半蔵のことを心配して、祭りの前夜は旧本陣に詰めきり、自宅に帰って寝るころに一番|鶏《どり》の声をきいたと言っていたが、その清助も祭りの世話人の一人《ひとり》であるところから、町の子供たちが村社の鳥居前から動き出すころには自分で拍子木《ひょうしぎ》をさげて行って行列の音頭《おんど》をとった。羽織袴《はおりはかま》の役人衆の後ろには大太鼓が続き、禰宜《ねぎ》の松下千里も烏帽子《えぼし》[#「烏帽子」は底本では「鳥帽子」]直垂《ひたたれ》の礼装で馬にまたがりながらその行列の中にあった。
 馬籠での祭礼復興と聞いて、泊まりがけで近村から入り込んで来る農家の男女もすくなくない。一里二里の山路を通って来る娘たちなぞは、いずれも一年に一度の祭礼狂言を見ることを楽しみにしないものはない。あのいたいけな馬籠の子供たちがそろいの黒い半被《はっぴ》に、白くあらわした大きな定紋《じょうもん》を背中に着け、黄色な火の用心の巾着《きんちゃく》を腰にぶらさげながら町を練り歩くなぞは、近年にはないことだと言われた。旧《ふる》い街道の空には笛や三味線の音も起こり、伏見屋の前あたりでは木曾ぶしにつれて踊りの輪を描く若者の群れの「なかのりさん」もはじまるというにぎやかさだ。これで旧本陣のお師匠さまが引き起こしたような思いがけない出来事もなくて、一緒にこの祭りの日を楽しむことができたならと、それを言わないものもなかった。
 どうして半蔵のような人が青山の家に縁故の深い万福寺を焼き捨てようと思い立ったろう。多くの村民にはどこにもその理由が見いだせなかった。なぜかなら、遠い昔に禅宗に帰依《きえ》した青山の先祖道斎が村民のために建立《こんりゅう》したのも万福寺であり、今日の住持|松雲和尚《しょううんおしょう》はまたこんな山村に過ぎたほどの人で、その
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