た空をながめるものもある。そこは方丈から客殿へ続く回り縁になっていて、さらに本堂の裏手、位牌堂までも続いて行っている。客殿と位牌堂との間には渡れる橋もある。彼はそんな方までも歩いて行って、昼間のように明るい夜の光の照らしている橋の上にも立って見た。ふと、庭の暗いすみにうずくまる黒いものの動きが彼の目に映った。そんなところに隠れながら彼を待ち伏せしているようなやつだ。彼はその怪しい人の影をありありと見た。にわかに酒の酔いのさめたのもその時であった。顔色も青ざめながら方丈へ引き返した。
「わたしは失礼する。」
と松雲に断わりを言って置いて、他の客より一足先に寺を辞し去ろうとしたのも、その半蔵だ。
庄助は半蔵が飲み過ぎからとでも思ったかして、囲炉裏《いろり》ばたまでついて来て、土間に下駄《げた》をさがす時の彼に言った。
「お師匠さま、お前さまはもうお帰りか。お一人《ひとり》で大丈夫かなし。門前の石段は暗いで、お寺で提灯《ちょうちん》でも借りてあげずか。」
「なあに、こんな月夜に提灯なぞはいらん。」
「もうお師匠さまも帰りそうなものだ。」
隠宅では、半蔵の留守に伏見屋の三郎と梅屋の益穂とが遊びに来て、お民と共に主人の帰りを待っている。お民は古い将棋盤なぞを出して来て三郎らにあてがったので、二人の弟子《でし》は駒《こま》の勝負に余念もない。その古い将棋盤は故吉左衛門の形見として静の屋に残ッているものだ。
「さあ、早くさしたり。」
「待った。」
「いつまでそんなに考え込むんだ。」
「手には。」
「角《かく》桂《けい》に、歩《ふ》が六枚。」
下座敷の縁側に近く盤を置いて、二人の弟子はそんなことを言い合っている。しばらく縁側に出て月を見ていたお民が二人のいる方へ来て見ると、三郎は相手の長い「待った」に気を腐らして、半分ひとり言のようにお民に言った。
「お師匠さまも、あれで将棋でもなさると、いいがなあ。」
「いいがなあのようなことだ。」とお民は笑って、思わず三郎の言葉に釣《つ》り込まれながら、「ほんとに、うちは道楽というもののすくない人ですね。弓をやるじゃなし、鳥屋《とや》に凝るじゃなし、暇さえあれば机に向かって本を読んでばかり。この節は気がふさいでしかたがないと言いますから、どんなふうに気分が悪いんですかッて、わたしは聞いて見ました。なんでも、こうすわっていますと、そこいらが暗くなって来るらしい――暗い、暗いッて、よくそんなことを言いましてね。」
お民は夫の健康が気にかかるというふうに、それを三郎に言って見せた。じっと盤をにらんだ益穂の長考はまだ続いていた。そこへ月を踏んで来る人の足音がした。お民はその足音で、すぐそれが夫であることを聞き知った。師匠の帰りと聞いて、益穂も今はこれまでと、手に持つ駒《こま》を盤の上に投げてしまった。
何げなく半蔵は隠宅に帰って来て二人の弟子にも挨拶《あいさつ》したが、心の興奮は隠せなかった。お民は夫に近く寄ってまず酒くさい息を感じた。
「お民、二階へ燈火《あかり》をつけてくれ。それから、毛氈《もうせん》を敷いてくれ。まだそんなにおそくもないんだろう。こんな晩には何か書いて遊びたい。」
半蔵はその足で二階の梯子段《はしごだん》を登った。三郎や益穂をも呼んで、硯《すずり》筆《ふで》の類を取り出し、紙をひろげることなぞ手伝わせた。墨も二人の弟子に磨《す》らせた。
「どれ、一つ三郎さんたちにお目にかけるか。」
と言いながら、半蔵がそこへ取り出したのは、平素めったに人にも見せたことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士《みとろうし》がこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東|美濃《みの》や伊那《いな》の谷の平田同門の人たちとよく相往来したころにできたものだ。さすがに筆の跡も若々しく、書いてあることもまた若々しい。それを彼は二人の弟子に読み聞かせた。
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天地生[#二]万物[#一]、人為[#二]最霊[#一]也。人之能為[#レ]霊、以[#二]其有[#一レ]霊[#レ]於[#レ]心也。凡物多[#レ]類。野有[#二]千艸[#一]、山有[#二]万木[#一]。一視則均是艸木也。然艸有[#二]蘭菊之芳[#一]、而木有[#二]松柏之操[#一]焉。人亦猶如[#レ]此也。人之能超[#レ]群者、其霊之能勝[#レ]於[#二]衆霊[#一]也。尋常之物、雖[#レ]有[#二]千百[#一]、同此一様、而猶[#三]艸木之無[#二]芳操[#一]者也。卓出之物、有[#レ]一則一、十則十、皆有[#レ]裨[#三]益於[#二]国家[#一]也、猶[#三]艸木之於[#二]松菊[#一]也。惟菊也、松也、一視則直知[#三]其為[#二]秀英[#一]也。人之賢愚以[#レ]心、不[#レ]以[#レ]形、故不[#レ]可[#二]遽見[#一]也。蓋心之霊在[#レ]思。其霊最覚者、思弥遠矣。而愚也非[#レ]所[#レ]敢也。然人心不[#レ]能[#レ]無[#レ]思。而吾性所[#レ]思最多常鬱[#三]陶于[#二]心胸[#一]也。陳[#レ]之、列[#レ]之、以熟[#二]思其所思[#一]、其有[#レ]所[#レ]得乎。吾素微躯、惟守[#二]其業[#一]、仰以事[#レ]親、俯以養[#二]妻子[#一]、則能事畢焉。何其媚[#レ]世求[#レ]容[#レ]之為也。雖[#レ]然、如[#レ]此而生、如[#レ]此而死、焉在[#三]其為[#二]万物之霊[#一]也。竊観[#二]昔人之所[#一レ]為。有[#二]以[#レ]文鳴者[#一]。有[#二]以[#レ]武知者[#一]。有[#二]直諫而死者[#一]。有[#二]忠亮而終始一如者[#一]。有[#二]信義以自守者[#一]。有[#二]私淑而自修者[#一]。有[#二]見[#レ]危致[#レ]命者[#一]。有[#二]良図建[#レ]功者[#一]。有[#二]英断果決見[#レ]過則能改者[#一]。有[#下]苟喪[#二]其人[#一]則失[#二]千載之伝[#一]者[#上]。有[#下]常思[#二]四方之遠[#一]不[#レ]忘[#二]民之細故[#一]者[#上]。有[#下]善察[#二]百世之後[#一]憂[#二]国家之憂[#一]者[#上]。有[#下]禁[#レ]暴戡[#レ]乱能畏[#二]服四方[#一]者[#上]。有[#下]歴[#二]記百世之事[#一]以伝[#レ]于[#二]将来[#一]者[#上]。凡事如[#レ]此。則非[#三]一身之所[#二]能為[#一]也。然則従[#二]吾所[#レ]好者[#一]乎。
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読みかけて、「しからばすなわち、わが好むところのものに従わんか」の最後のくだりになると、五十余年の数奇な生涯《しょうがい》が半蔵の胸に浮かんで来た。見るもの聞くもの涙の種でないものはなかったようなところすら通り越して、今は涙も流れなかった。
その晩、半蔵は弟子を相手にして、しきりに物を書いた。静の屋ではまだ行燈《あんどん》しか用いなかったが、その燈火《あかり》では暗かったから、彼は三郎らに手燭《てしょく》を持たせ、蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》に映る紙の上に和歌なぞを大きく、しかもいろいろに書いて遊んだ。あるものは仮名《かな》文字、あるものは真名《まな》文字というふうに。それを三郎にも益穂にも分けると、二人は大よろこびで持ち帰ったころは夜もおそかった。そのあとにはむさぼるようにまだ何か書きたい半蔵が残った。その興奮には止め度がなかったので、しまいには彼は二階の燈火を吹き消して階下へ休みに降りたくらいだ。
「あなた、また眠られないといけませんよ。すこし召し上がり過ぎたんじゃありませんか。あなたのお酒は顔色に出ないんだから、はたのものにはわからない。」
と言って、そばへ寄ったのはお民だ。半蔵は下座敷の内を静かに歩き回ったり、また妻のいるところへ近く行ったりして、
「お民、もう何時《なんじ》だろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時のおれの心持ちはなかった。後方《うしろ》から何かに襲われるような気がして、実に気持ちが悪かった。さっさとおれは逃げて帰った。」
「そりゃ、あなたの気のせいです。あなたはよくそこいらが暗い、暗いなんておっしゃるが、みんな気のせいですよ……平田先生は、こういう時の力にはなりませんかねえ。」
このお民の「平田先生」が半蔵をほほえませた。彼は思いがけないことを妻の口から聞いたように思っていると、お民は言葉をついで、
「でも、あの先生はありがたい人だって、そのお話がよく出るじゃありませんか。」
「それさ。おれもこれで、どうかすると篤胤先生を見失うことがある。篤胤先生ばかりじゃないや、あの本居宣長翁でも、おれの目には見えなくなってしまうこともある。そのたびに、おれは精神《こころ》の力を奮い起こして、ようやくここまでたどりついたようなものさ。そうだ、お粂《くめ》の言い草じゃないが、神霊《みたま》さまと一緒にいれば寂しくない。こりゃ、おれも路《みち》に迷ったかしらん。もう一度おれは勇気を出して神を守りに行かにゃならん。しかし、今夜は――お前もよいことを言ってくれた。」
その時、お民は思いついたように、下座敷の小襖《こぶすま》から薬箱を取り出して来た。その中には医師の小島|拙斎《せっさい》が調合して置いて行ってくれた薬がある。本家の母屋《もや》を借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に、もしお師匠さまに眠られないようなことがあったらあげてくれと言って、お民のもとに残して置いて行ったのがそれだ。彼女は台所の流しもとへくみ置きの清水や湯のみなぞをも取りに行って来て、その薬を夫に勧めた。
翌日からの半蔵は一層不思議な心持ちをたどるようになった。彼は床の上に目をさまして見て、およそ何時間ぐらい眠ったということも知らなかった。夢に夢見る心地《ここち》で彼があたりを見回した時は、本家の裏二階の方に日を暮らしている継母やお槇《まき》はもとより、朝夕連れ添う妻のお民までがなんとなく遠くの方にいる人のような気がして来た。
秋の日のあたった部屋《へや》の障子には、木曾らしい蝿《はえ》の残ったのが彼の目についた。彼はその光をめがけながら飛びかう虫の群れをつくづくとながめているうちに、久しく音信《たより》もしない同門の先輩|暮田正香《くれたまさか》のことを胸に浮かべた。彼はあの正香がそう無造作にできるものが復古ではないと言った言葉なぞを思い出した。ところが世間の人はそうは思わないから、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことをも思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたこともあやまった熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変わり方に面とむかっては、ただただ彼なぞは目もくらむばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行ったあとになって見ると、昨日まで宗教|廓清《かくせい》の急先鋒《きゅうせんぽう》と目された平田門人らも今日は頑執《がんしゅう》盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、する事、なす事、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人《きちがい》はやッつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんなあざけりの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。
「おれには敵がある。」
彼はその考えに落ちて行った。さてこそ、妻の耳に聞こえないものも彼の耳に聞こえ、妻の目に見えないものも彼の目に見えるのはそのためであった。
過ぐる年の献扇《けんせん》事件の日、大衆は実に圧倒するような勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京|神田橋《かんだばし》見附跡《みつけあと》の外での多勢の混雑を今だに忘
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