できる。ちょうど半蔵も隠宅にある時で心ゆくばかり師匠の読書する声が二階から屋外《そと》まで聞こえて来ているところへ勝重は訪ねて行った。入り口の壁の外には張り物板も立てかけてあるが、お民のすがたは見えなかった。しばらく勝重は上《あが》り框《がまち》のところに腰掛けて、読書の声のやむまで待った。その間に彼は師匠が余生を送ろうとする栖家《すみか》の壁、柱なぞにも目をとめて見る時を持った。階下は一部屋と台所としかないような小楼であるが、木材には事を欠かない木曾の山の中のことで木口もがっしりしている上に、すでにほどのいい古びと落ちつきとができて、すべて簡素に住みなしてある。入り口の壁の内側には半蓑《はんみの》のかかっているのも山家らしいようなところだ。やがて半蔵は驚いたように二階から降りて来て勝重を下座敷へ迎え入れた。半蔵ももはや以前のような総髪《そうがみ》を捨てて髪も短かめに、さっぱりと刈っている人である。いつでも勝重が訪ねて来るたびに、同じ顔色と同じ表情とでいたためしのないのも半蔵である。ひどく青ざめた顔をしていることもあれば、また、逆上《のぼ》せたように紅《あか》い顔をしていることもある。その骨格のたくましいところは先代吉左衛門に似て、膝《ひざ》の上に置いた手なぞの大きいことは、対坐《たいざ》するたびに勝重の心を打つ。その日、半蔵はあいにく妻が本家の方へ手伝いに行っている留守の時であると言って見せ、手ずから茶などをいれて旧《ふる》い弟子をもてなそうとした。そこへ勝重が落合からさげて来たものを取り出すと、半蔵は目を円《まる》くして、
「ホウ、勝重さんは酒を下さるか。」
 まるで子供のようなよろこび方だ。そう言う半蔵の周囲には、継母はじめ、宗太夫妻から親戚《しんせき》一同まで、隠居は隠居らしく飲みたい酒もつつしめと言うものばかり。わざわざそれをさげて来て、日ごろの愁《うれ》いを忘れよとでも言うような人は、昔を忘れない弟子のほかになかった。
「勝重さん、君の前ですが、この節|吾家《うち》のものは皆で寄ってたかって、わたしに年を取らせるくふうばかりしていますよ。」
「そりゃ、お家の方がお師匠さまのためを思うからでしょうに。」
「しかし、勝重さん、こうしてわたしのように、日がな一日山にむかって黙っていますとね、半生の間のことがだんだん姿を見せて来ましてね、そう静かにばかりしてはいられませんよ。」
 半蔵は勝重から何よりのものを贈られたというふうに座を離れて、台所の方へその土産を置きに行ったが、やがてまたニヤニヤ笑いながら勝重のいるところへ戻《もど》って来た。
 その静の屋に半蔵が二度目の春を迎えるころは、東京の平田|鉄胤《かねたね》老先生ももはやとっくに故人であった。そればかりではない、彼は中津川の友人香蔵の死をも見送った。追い追いと旧知の亡《な》くなって行くさびしさにつけても、彼は久しぶりの勝重をつかまえて、容易に放そうともしない。他に用事を兼ねて日ごろ無沙汰《ぶさた》のわびばかりに来たという勝重が師匠の顔を見るだけに満足し、落合の酒を置いて行くだけにも満足して、やがて気軽な調子で辞し去ろうとした時、半蔵はその人を屋外《そと》まで追いかけた。それほど彼は人なつかしくばかりあった。
 半蔵は勝重に言った。
「そう言えば、勝重さん、文久三年に君と二人《ふたり》で御嶽参籠《おんたけさんろう》に出かけた時さ。あれは、ちょうど今時分じゃありませんか。でも、いい陽気になって来ましたね。この谷へも、鶯《うぐいす》が来るようになりましたよ。」
 こんな声を聞いて勝重は師匠のそばから離れて行った。そして、ひとりになってから言った。
「どうして、お師匠さまはまだまだ年寄りの仲間じゃない。」

       二

 静の屋は別に観山楼とも名づけてある。晴れにもよく雨にもよい恵那山《えなさん》に連なり続く山々、古代の旅人が越えて行ったという御坂《みさか》の峠などは東南にそびえて、山の静かさを愛するほどのものは楼にいながらでもそのながめに親しむことができる。緩慢《なだらか》ではあるが、しかし深い谷が楼のすぐ前にひらけていて、半蔵はそこいらを歩き回るには事を欠かなかった。清い水草の目を楽しませるものは行く先にある。日あたりのよい田圃《たんぼ》わきの土手は谷間のいたるところに彼を待っている。その谷底まで下って行けば、土地の人にしか知られていない下坂川《おりさかがわ》のような谿流《けいりゅう》が馬籠の男垂山《おたるやま》方面から音を立てて流れて来ている。さらにすこし遠く行こうとさえ思えば、谷の向こうにある林の中の深さにはいって見ることもでき、あるいは山かげを耕して住む懇意な百姓の一軒家まで歩いてそこに時を送って来ることもできる。もういい加減に、枯れてもいい年ごろだと言われる半蔵が生涯《しょうがい》の奥に見つけたのは、こんな位置にあるところだ。一方は馬籠裏側の細い流れに接して、そこへは鍋《なべ》を洗いに来る村の女もある。鶏の声も遠く近く聞こえて来ている。
 もし半蔵があの落合の勝重の言うように余生の送れる人であったら、いかに彼はこの閑居を楽しんだであろう。本家の方のことはもはや彼には言うにも忍びなかった。しかし隠居の身として口出しもならない。世にいう漁《ぎょ》、樵《しょう》、耕《こう》、牧《ぼく》の四隠のうち、彼のはそのいずれでもない。老い衰えて安楽に隠れ栖《す》むつもりのない彼は、寂しく、悲しく、血のわく思いで、ただただ黙然とおのれら一族の運命に対していた。これがついの栖家《すみか》か、と考えて、あたりを見回すたびに、彼は無量の感慨に打たれずにはいられなかった――たとい、お民のような多年連れ添う妻がそばにいて、共に余生を送るとしても。なんと言っても旧《ふる》い馬籠の宿場の跡には彼の少年時代からの記憶が残っている。夕方にでもなると、彼は街道に出て往来《ゆきき》の人にまじりたいと思うような時を迎えることが多かった。
 ある日の午後、彼は突然な狂気にとらえられた。まっしぐらに馬籠の裏道を東の村はずれの岩田というところまで走って行って、そこに水車小屋を営む遠縁のものの家へ寄った。硯《すずり》を出させ、墨を磨《す》らせた。紙をひろげて自作の和歌一首を大きく書いて見た。そしてよろこんだ。その彼の姿は、自分ながらも笑止と言うべきであった。そこからまた同じ裏道づたいに、共同の水槽《すいそう》のところに集まる水くみの女どもには、目もくれずに、急いで隠宅へ引き返して来た。
「まあ、きょうはどうなすったか。」
 とお民はあきれた。
 半蔵に言わせると、彼も不具ではない。不具でない以上、時にはこうした狂気も許さるべきであると。
「これがお前、生きているしるしなのさ。」
 半蔵の言い草だ。
 梅から山ざくら、山ざくらから紫つつじと、春を急ぐ木曾路《きそじ》の季節もあわただしい。静の屋の周囲にある雑木なぞが遠い谷々の草木と呼吸を合わせるように芽を吹きはじめると、日の色からしてなんとなく違って来るさわやかな明るさが一層半蔵の目には悩ましく映った。彼は二部屋ある二階の六畳の方に古い桐《きり》の机を置いて、青年時代から書きためた自作の『松《まつ》が枝《え》』、それに飛騨《ひだ》時代以来の『常葉集《とこわしゅう》』なぞの整理を思い立った時であるが、それらの歌稿を書き改めているうちに、自分の生涯に成し就《と》げ得ないもののいかに多いかにつくづく想《おも》いいたった。傾きかけた青山の家の運命を見まもるにつけても、いつのまにか彼の心は五人の子の方へ行った。それぞれの道をたどりはじめている五人の姉弟《きょうだい》のことは絶えず彼の心にかかっていたからで。


 姉娘のお粂《くめ》がその旦那《だんな》と連れだって馬籠へ訪《たず》ねて来たのは、あれは半蔵らのまだ本家の方に暮らしていた明治十六年の夏に当たる。ちょうどお粂夫婦は東京の京橋区|鎗屋町《やりやちょう》の方にあった世帯《しょたい》を畳《たた》み、半蔵から預かった二人《ふたり》の弟たちをも東京に残して置いて、一家をあげて郷里の方へ引き揚げて来たころのことであったが、夫婦の間に生まれた二番目の女の子を供の男に背負《おぶ》わせながら妻籠《つまご》の方から着いた。お粂は旦那と同年で、年齢の相違したものが知らないような心づかいからか、二十八の年ごろの細君にしては彼女はいくらか若造りに見えた。でも、お粂はお粂らしく、瀟洒《こざっぱり》とした感じを失ってはいなかった。たまの里帰りらしい手土産《てみやげ》をそこへ取り出すにも、祖母のおまんをはじめ宗太夫婦に話しかけるにも、彼女は都会生活の間に慣れて来た言葉づかいと郷里の訛《なま》りとをほどよくまぜてそれをした。背は高く、面長《おもなが》で、風采《ふうさい》の立派なことは先代|菖助《しょうすけ》に似、起居振舞《たちいふるまい》も寛《ゆるや》かな感じのする働き盛りの人が半蔵らの前に来て寛《くつろ》いだ。その人がお粂の旦那だ。その青年時代には同郷の学友から木曾谷第一の才子として許された植松弓夫だ。
 弓夫は半蔵のことを呼ぶにも、「お父《とっ》さん」と言い、義理ある弟へ話しかけるにも「宗太君、宗太君」と言って、地方のことが話頭《はなし》に上れば長崎まで英語を修めに行ったずっと年少《としわか》なころの話もするし、名古屋で創立当時の師範学校に学んだころの話もする。弓夫は早く志を立てて郷里の家を飛び出し、都会に運命を開拓しようとしたものの一人《ひとり》であった。これは先代菖助が横死の刺激によることも、その家出の原因の一つであったであろう。弓夫は何もかも早かった。郷党に先んじて文明開化の空気を呼吸することも早かった。年若な訓導として東京の小学校に教えたこともあり、大蔵省の収税吏として官員生活を送ったこともあり、政治に興味を持って改進党に加盟したこともあり、民間に下ってからは植松家伝の処方によって謹製する薬を郷里より取り寄せ、その取次販売の路《みち》をひろげることを思い立ち、一時は東京|池《いけ》の端《はた》の守田宝丹《もりたほうたん》にも対抗するほどの意気込みで、みごとな薬の看板まで造らせたが、結局それも士族の商法に終わり、郷里をさして引き揚げて来ることもまた早かった。かつては木曾福島山村氏の家中の武士として関所を預かる主《おも》な給人であり砲術の指南役ででもあった先代菖助がのこして置いて行った大きな屋敷と、家伝製薬の業とは、郷里の方にその彼を待っていた。しかし、そこに長い留守居を預かって来た士族出の大番頭たちは彼がいきなりの帰参を肯《がえん》じない。毎年福島に立つ毛付け(馬市)のために用意する製薬の心づかいは言うまでもなく、西は美濃《みの》尾張《おわり》から北は越後《えちご》辺まで行商に出て、数十里の路を往復することもいとわずに、植松の薬というものを護《まも》って来たのもその大番頭たちであった。文明開化の今日、武家の内職として先祖の始めた時勢おくれの製薬なぞが明日の役に立とうかと言い、もっと気のきいたことをやって見せると言って家を飛び出して行った弓夫にも、とうとう辛抱強い薬方《くすりかた》の前に兜《かぶと》を脱ぐ時がやって来た。その帰参のかなうまで、当時妻籠の方に家を借りて、そこから吾妻村《あずまむら》小学校へ教えに通《かよ》っているというのも弓夫だ。
「やっぱり先祖の仕事は根深い。」
 とは、弓夫が高い声を出して笑いながらの述懐だ。
 旧本陣奥の間の風通しのよいところに横になって連れて来た女の子に乳房《ちぶさ》をふくませることも、先年東山道御巡幸のおりには馬籠|行在所《あんざいしょ》の御便殿《ごびんでん》にまで当てられた記念の上段の間の方まで母のお民と共に見て回ることも、お粂には久しぶりで味わう生家《さと》の気安さでないものはなかったようである。東京の方にお粂夫婦が残して置いて来たという二人の弟たちのことは半蔵もお民も聞きたくていた。弓夫らの話によると、半蔵の預けた子供は二人ともあの京橋鎗屋町の家から数寄屋橋《すきやばし
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