ょく》をとぼしながら囲炉裏ばたの勝手の方へ忍んだ。


 二合ばかりの酒、冷たくなった焼き味噌《みそ》、そんなものが勝手口の戸棚《とだな》に残ったのを半蔵は探《さが》し出して、それを店座敷に持ち帰った。彼が火鉢《ひばち》だ炭取りだ鉄瓶《てつびん》だと妻の枕もとを歩き回るたびに、深夜の壁に映るひとりぼっちの影法師は一緒になって動いた。
 物を学ばせに子供を上京させたことから、半蔵はいろいろな心持ちを引き出されていた。お民が何も知らずにいる間に、彼は火鉢の火をおこしたり、鉄瓶をかけたりなぞしながら、そのことを考えた。つまり、それは彼自身に物を学びたいと思う心が熱いからであった。あの『勧学篇《かんがくへん》』などを子供に書いてくれて、和助が七つ八つのころから諳誦《あんしょう》させたのも、その半蔵だ。学芸の思慕は彼の天性に近かった。それはまた親譲りと言ってもよかった。彼が平田入門を志した青年の日、父吉左衛門にその望みを打ち明けたところ、父は馬籠の本陣を継ぐべき彼が寝食も忘れるばかりに平田派の学問に心を傾けて行くのを案じながらも、
「お前の学問好きは、そこまで来たか。」
 と言って、結局彼の願いをいれてくれたというのも、やはり吉左衛門自身にその心が篤《あつ》かったからであった。かくも学ぶに難い時になって来て、何から何まで西洋の影響を受け、今日の形勢では西洋でなければ夜が明けないとまで言う人間が飛び出す世の中に立っては、彼とても何を自分の子供に学ばせ、自らもまた何を学ぼうと考えずにはいられなかった。どうして国学に心を寄せるほどのものが枕を高くして眠られる時ではないのだ。
 先師平田篤胤の遺著『静《しず》の岩屋《いわや》』をあの王滝の宿で読んだ日のことは、また彼の心に帰って来た。あれは文久三年四月のことで、彼が父の病を祷《いの》るための御嶽《おんたけ》参籠《さんろう》を思い立ち、弟子《でし》の勝重《かつしげ》をも伴い、あの山里の中の山里ともいうべきところに身を置いて、さびしくきこえて来る王滝川の夜の河音《かわおと》を耳にした時だった。先師と言えば、外国よりはいって来るものを異端邪説として蛇蝎《だかつ》のように憎みきらった人のように普通に思われながら、「そもそもかく外国々《とつくにぐに》より万《よろ》づの事物《ものごと》の我が大御国《おおみくに》に参り来ることは、皇神《すめらみかみ》たちの大御心《おおみこころ》にて、その御神徳の広大なる故《ゆえ》に、善《よ》き悪《あ》しきの選みなく、森羅万象《しんらばんしょう》のことごとく皇国《すめらみくに》に御引寄せあそばさるる趣を能《よ》く考へ弁《わきま》へて、外国《とつくに》より来る事物はよく選み採りて用ふべきことで、申すも畏《かしこ》きことなれども、是《これ》すなはち大神等《おおみかみたち》の御心掟《みこころおきて》と思い奉られるでござる、」とあるような、あんな広い見方のしてあるのに、彼が心から驚いたのも『静の岩屋』を開いた時だった。先師はあの遺著の中で、天保《てんぽう》年代の昔に、すでに今日あることを予言している。こんなに欧米諸国の事物がはいって来て、この国のものの長い眠りを許さないというのも、これも測りがたい神の心であるやも知れなかった。
 言葉もまた重要な交通の機関である。かく万国交際の世の中になって、一切の学術、工芸、政治、教育から軍隊の組織まで西洋に学ばねばならないものの多いこの過渡時代に、まず外国の言葉を習得して、自由に彼と我との事情を通じうるものは、その知識があるだけでも今日の役者として立てられる。今や維新と言い、日進月歩の時と言って、国学にとどまる平田門人ごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得なかった。ただ半蔵としては、たといこの過渡時代がどれほど長く続くとも、これまで大和言葉《やまとことば》のために戦って来た国学諸先輩の骨折りがこのまま水泡《すいほう》に帰するとは彼には考えられもしなかった。いつか先の方には再び国学の役に立つ時が来ると信じないかぎり、彼なぞの立つ瀬はなかったのであった。
 先師の書いたものによく引き合いに出る本居宣長の言葉にもいわく、
「吾《われ》にしたがひて物学ばむともがらも、わが後に、又《また》よき考への出《い》で来《きた》らむには、かならずわが説にななづみそ。わがあしき故《ゆえ》を言ひて、よき考へを弘《ひろ》めよ。すべておのが人を教ふるは、道を明らかにせむとなれば、とにもかくにも道を明らかにせむぞ、吾を用ふるにはありける。道を思はで、いたづらに吾を尊《とうと》まんは、わが心にあらざるぞかし。」
 ここにいくらでも国学を新しくすることのできる後進の者の路《みち》がある。物学びするほどのともがらは、そう師の説にのみ拘泥《こうでい》するなと教えてある。道を明らかにすることがすなわち師を用うることだとも教えてある。日に日に新しい道をさらに明らかにせねばならない。そして国学諸先輩の発見した新しい古《いにしえ》をさらに発見して行かねばならない。古を新しくすることは、半蔵らにとっては歴史を新しくすることであった。
 そこまで考えて行くうちに、鉄瓶《てつびん》の湯もちんちん音がして来た。その中に徳利《とくり》を差し入れて酒を暖めることもできるほどに沸き立って来た。冷たくなった焼き味噌も炙《あぶ》り直せば、それでも夜の酒のさかなになった。やがて半蔵は好きなものにありついて、だれに遠慮もなく手酌《てじゃく》で盃《はい》を重ねながら、また平田門人の生くべき道を思いつづけた。仮に、もしあの本居宣長のような人がこの明治の御代《みよ》を歩まれるとしたら、かつてシナインドの思想をその砥石《といし》とせられたように、今また新しい「知識」としてこの国にはいって来た西洋思想をもその砥石として、さらに日本的なものを磨《みが》きあげられるであろう。深くも、柔らかくも、新しくもはいって行かれるあの宣長翁が学者としての素質としたら、洋学にはいって行くこともさほどの困難を感ぜられないであろう。おおよそ今の洋学者が説くところは、理に合うということである。あの宣長翁であったら、おそらく理を知り、理を忘れるところまで行って、言挙《ことあ》げということもさらにない自然《おのずから》ながらの古の道を一層明らかにされるであろう。
 思いつづけて行くと、半蔵は大きな巌《いわお》のような堅い扉《とびら》に突き当たる。先師篤胤たりとも、西洋の方から起こって来た学風が物の理を考え究《きわ》めるのに賢いことは充分に認めていた。その先師があれほどの博学でも、ついに西洋の学風を受けいれることはできなかった。彼はそう深く学問にもはいれない。これは宣長翁のようなまことの学者らしい学者にして初めて成しうることで、先師ですらそこへ行くとはたして学問に適した素質の人であったかどうかは疑問になって来た。まして後輩の彼のようなものだ。彼は五十年の生涯と、努力と、不断の思慕とをもってしても、力にも及ばないこの堅い扉をどうすることもできない。
 彼が子弟の教育に余生を送ろうとしているのも、一つはこの生涯の無才無能を感づくからであった。彼は自分の生涯に成し就《と》げ得ないものをあげて、あとから歩いて来るものにその熱いさびしい思いを寄せたいと願った。それにしても、全国四千人を数えた平田篤胤没後の門人の中に、この時代の大波を乗り越えるものはあらわれないのか、と彼は嘆息した。所詮《しょせん》、復古は含蓄で、事物に働きかける実際の力にはならないと聞くのもつらく、ひとりで酒を飲めば飲むほど、かえって彼は寝られなかった。
[#改頁]

     第十四章

       一

 馬籠《まごめ》にある青山のような旧家の屋台骨が揺るぎかけて来たことは、いつのまにか美濃《みの》の落合《おちあい》の方まで知れて行った。その古さから言えば永禄《えいろく》、天正《てんしょう》年代からの長い伝統と正しい系図とが残っていて、馬籠旧本陣と言えば美濃路にまで聞こえた家に、もはやささえきれないほどの強い嵐《あらし》の襲って来たことが、同じ街道筋につながる峠の下へ知られずにいるはずもなかった。馬籠を木曾路の西のはずれとするなら、落合は美濃路の東の入り口に当たる。落合から馬籠までは、朝荷物をつけて国境《くにざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を越して行く馬が茶漬《ちゃづ》けまでには戻《もど》って来るほどの距離にしかない。
 落合に住む稲葉屋《いなばや》の勝重《かつしげ》はすでに明治十七年の三月あたりからその事のあるのを知り、あの半蔵が跡目相続の宗太夫婦とも別居して、一小隠宅の方に移り住むようになった事情をもうすうす知っていた。勝重はかつて半蔵の内弟子《うちでし》として馬籠旧本陣に三年の月日を送ったことを忘れない。明治十九年の春が来るころには、彼も四十歳に近い分別盛りの年ごろの人である。いよいよあの古い歴史のある青山の家も傾いて来て、没落の運命は避けがたいかもしれないということは、彼にとって他事《ひとごと》とも思われなかった。実は彼は他の落合在住者とも語り合い、半蔵の世話になったものだけが集まって、なんらかの方法で師匠を慰めたいと、おりおりその相談もしていた時であった。これまで半蔵の教えを受けた人たちの中で一番末頼もしく思われていたものも勝重である。今は彼も父祖の家業を継いで醤油《しょうゆ》醸造に従事する美濃衆の一人であり、先代儀十郎まで落合の宿役人を勤めた関係からも何かにつけて村方の相談に引き出される多忙な身ではあるが、久しく見ない師匠のこともしきりに心にかかって、他に用事を兼ねながら、にわかに馬籠訪問を思い立った。家を出る時の彼は手にさげられるだけの酒を入れた細長い樽《たる》をもさげていた。かねて大酒のうわさのある師匠のために、陰ながら健康を案じ続けていた彼ではあるが、いざ訪《たず》ねて行こうとして、何か手土産《てみやげ》をと探《さが》す時になると、やっぱり良い酒を持って行って勧めたかった。これは落合の酒だが、馬籠の伏見屋あたりで造る酒と飲みくらべて見てもらいたいとでも言って、それを嗜《たしな》む半蔵のよろこぶ顔が見たいと思いながら彼は出かけた。勝重から見ると、元来本陣といい問屋《といや》といい庄屋《しょうや》といった人たちは祖先以来の習慣によって諸街道交通の要路に当たり、村民の上に立って地方自治の主脳の位置にもあり、もっぱら公共の事業に従って来たために、一家の経済を処理する上には欠点の多かったことは争われない。旧藩士族の人たちのためにはとにもかくにも救済の方法が立てられ、禄券《ろくけん》の恩典というものも定められたが、庄屋本陣問屋は何のうるところもない。明治維新の彼らを遇することは薄かった。今や庄屋の仕事は戸長役場に移り、問屋の仕事は中牛馬会社に変わって、ことに本陣をも兼ねた青山のような家があの往時の武家と公役とのためにあったような大きな屋敷の修繕にすら苦しむようになって来たことは当然の話であった。この際、半蔵の弟子《でし》としては、傾いて行く青山の家運をどうすることもできないが、せめて師匠だけは、そのあわれな境涯《きょうがい》の中にも静かな晩年の日を送ってもらいたいと願うのであった。というのは、飛騨《ひだ》の寂しい旅以来の半蔵の内部《なか》には精神にも肉体にも何かが起こっているに相違ないとは、もっぱら狭い土地での取りざたで、それが勝重の耳にもはいるからであった。
 四月上旬の美濃路ともちがい、馬籠峠の上へはまだ春の来ることもおそいような日の午後に、勝重は霜の溶けた道を踏んで行ったのであるが、半蔵の隠宅を訪ねることは彼にとってそれが初めての時でもない。そこは静《しず》の屋《や》と名づけてある二階建ての小楼で、青山の本家からもすこし離れた馬籠の裏側の位置にある。落合方面から馬籠の町にはいるものは、旧本陣の門前まで出ないうちに街道を右に折れ曲がって行くと、共同の水槽《すいそう》の方から奔《はし》って来る細い流れの近くに、その静の屋を見いだすことが
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