しい。古い歴史のあるこの地方のことを供奉の人々にも説き明かすような役割は何一つ彼には振り当てられなかった。その相談もなければ、沙汰《さた》もない。彼は土蔵の前の石垣《いしがき》のそばに柿の花の落ちている方へ行って、ひとりですすり泣きの声をのむこともあった。
 恵那山のふもとのことで、もはやお着きを知らせるようなめずらしいラッパの音が遠くから谷の空気に響けて来た。当日一千人分の名物|栗強飯《くりこわめし》をお買い上げになり、随輦《ずいれん》の臣下のものに賜わるしたくのできていたという峠でのお野立ての時もすでに済まされたらしい。半蔵はあの路傍の杉《すぎ》の木立ちの多い街道を進んで来る御先導を想像し、山坂に響く近衛《このえ》騎兵の馬蹄《ばてい》の音を想像し、美しい天皇旗を想像して、長途の旅の御無事を念じながらしばらくそこに立ち尽くした。

       六

 明治十四年の来るころには半蔵も五十一歳の声を聞いた。その年の四月には、青山の家では森夫と和助を東京の方へ送り出したので、にわかに家の内もさみしくなった。
 二人《ふたり》の子供は東京に遊学させる、木曾谷でも最も古い家族の一つに数えらるるところから「本陣の子供」と言って自然と村の人の敬うにつけてもとかく人目にあまることが多い、二人とも親の膝下《ひざもと》に置いては将来ろくなことがない、今のうちに先代吉左衛門が残した田畑や本陣林のうちを割《さ》いて二人の教育費にあてる、幸い東京の方には今子供たちの姉の家がある、お粂《くめ》はその夫植松|弓夫《ゆみお》と共に木曾福島を出て東京京橋区|鎗屋町《やりやちょう》というところに家を持っているからその方に二人の幼いものを託する、あのお粂ならきっと弟たちのめんどうを見てくれる、この半蔵の考えが宗太をよろこばせた。子供本位のお民もこれには異存がなく、彼女から離れて行く森夫や和助のために東京の方へ持たせてやる羽織を織り、帯を織った。継母のおまんはおまんで、孫たちが東京へ立つ前日の朝は裏二階から母屋《もや》の囲炉裏ばたへ通って来て、自分の膳《ぜん》の前に二人《ふたり》を並べて置きながら、子供心にわかってもわからなくても青山の家の昔を懇々と語り聞かせた。ひょっとするとこれが孫たちの見納めにでもなるかのように、七十三歳の春を迎えたおまんはしきりに襦袢《じゅばん》の袖《そで》で老いの瞼《まぶた》をおしぬぐっていたが、いよいよ兄弟《きょうだい》の子供が東京への初旅に踏み出すという朝は涙も見せなかった。
 当時は旅もまだ容易でなかった。木曾の山の中から東京へ出るには、どうしても峠四つは越さねばならない。宗太も大奮発で、二人の弟の遊学には自ら進んで東京まで連れて行くと言い出したばかりでなく、隣家伏見屋二代目のすぐ下の弟に当たる二郎が目の治療のために同行したいというのをも一緒に引き受けて行った。
 子供ながらも二人の兄弟の動きは、そのあとにいろいろなものを残した。兄の森夫は、十三歳にもなってそんな頭をして行ったら東京へ出て笑われると言われ、宗太に手鋏《てばさみ》でジョキジョキ髪を短くしてもらい、そのあとがすこしぐらい虎斑《とらふ》になっても頓着《とんちゃく》なしに出かけるという子供だし、弟の和助も兄たちについて東京の方へ勉強に行かれることを何よりのよろこびにして、お河童頭《かっぱあたま》を振りながら勇んで踏み出すという子供だ。この弟の方はことに幼くて、街道を通る旅の商人からお民が買ってあてがったおもちゃの鞄《かばん》に金米糖《こんぺいとう》を入れ、それをさげるのを楽しみにして行ったほどの年ごろであった。小さな紐《ひも》のついた足袋《たび》。小さな草鞋《わらじ》。その幼いものの旅姿がまだ半蔵夫婦の目にある。下隣のお雪婆さんの家には、兄弟の子供が預けて置いて行ったショクノ(地方によりネッキともいう)が残っているというような話も聞こえて来る。
 初代伊之助を見送ったあとのお富ももはや若夫婦を相手の後家であるが、この人は東京行きの二郎を宗太に託してやった関係からも、風呂《ふろ》なぞもらいながら隣家から通《かよ》って来て、よく青山の家に顔を見せる。お富が言うことには、
「そりゃ、まあ、かわいい子には旅をさせろということもありますがね、よくそれでもお民さんがあんなちいさなものを手離す気におなりなすった。なんですか、わたしはオヤゲナイ(いたいたしい)ような気がする。」
 囲炉裏ばたにはこんな話が尽きない。やれ竹馬だなんだかだと言って森夫や和助が家の周囲《まわり》を遊び戯れたのも、きのうのことになった。
「でも、妙なものですね。まだわたしは子供がそこいらに遊んでるような気がしますよ。塩の握飯《むすび》をくれとでも言って、今にも屋外《そと》から帰って来るような気がしますよ――わたしはあの塩の握飯の熱いやつを朴葉《ほおば》に包んで、よく子供にくれましたからね。」
 寄ると触るとお民はそのうわさだ。
「まだお前はそんなことを言ってるのかい。」
 口にこそ半蔵はそう答えたが、その実、この妻を笑えなかった。手離してやった子供はどこにでもいた。夕方にでもなると街道から遠く望まれる恵那山の裾野《すその》の方によく火が燃えて、それが狐火《きつねび》だと村のものは言ったものだが、そんな街道に蝙蝠《こうもり》なぞの飛び回る空の下にも子供がいた。家の裏の木小屋の前から稲荷《いなり》の祠《ほこら》のある方へ通うところには古い池があって、石垣《いしがき》の間には雪の下が毎年のように可憐《かれん》な花をつけるところだが、そんなおとなでもちょっと背の立たないほど深いよどんだ水をたたえた池のほとりにも子供がいた。そればかりではない、子供は彼の部屋《へや》の座蒲団《ざぶとん》の上にもいたし、彼の懐《ふところ》の中にもいた。彼の袂《たもと》の中にもいた。
「この野郎、この野郎。」
 と彼が言いかけて、いくら教えても本のきらいな森夫の耳のあたりへ、握りこぶしの一つもくらわせようとすると、いつのまにか本をかかえて逃げ出すような子供は彼の目の前にいた。
「オイ、蝋燭《ろうそく》、蝋燭。」
 と彼が注意でもしてやらなければ、たまに夜おそくまで紙をひろげ、燭台《しょくだい》を和助に持たせ、その灯《ほ》かげに和歌の一つも大きく書いて見ようとすると、蝋燭もろともそこへころげかかるほど眠がっているような子供は彼のすぐそばにもいた。
 山のものとも海のものともまだわからないような兄弟の子供の前途にも半蔵は多くの望みをかけた。彼は読み書きの好きな和助のために座右の銘ともなるべき格言を選び、心をこめた数|葉《よう》の短冊《たんざく》を書き、それを紙に包んで初旅の餞《はなむけ》ともした。
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やよ和助読み書き数へいそしみて心静かに物学びせよ
[#ここで字下げ終わり]
 飛騨にいるころから半蔵はすでにこんな歌を作って子を思うこころを寄せていた。


 宗太は弟たちの旅の話を持って無事に東京から帰って来た。一行四人のものが、みさやま峠にかかった時は、さすが山歩きに慣れた子供の足も進みかねたと見え、峠で日が暮れかかったこともあったという。余儀なく彼は和助の帯に手ぬぐいを結びつけ、それで歩けない弟を引きあげたとか。追分《おいわけ》まで行くと、そこにはもう東京行きの乗合馬車があった。彼も初めてその馬車に乗って見た。同乗の客の中にはやはり東京行きの四十格好の婦人もあったが、弟たちを引率した彼に同情して、和助を引き取り、菓子なぞを与えたりしたが、昼夜の旅に疲れた子供はその見知らぬ婦人の膝《ひざ》の上に眠ることもあった。馬車に揺られながら鶏の鳴き声を聞いて行って松井田まで出たころに消防夫|梯子《はしご》乗りの試演にあった時は子供の夢を驚かした。上州《じょうしゅう》を過ぎ、烏川《からすがわ》をも渡った。四月の日の光はいたるところの平野にみちあふれていた。馬車は東京|万世橋《まんせいばし》の広小路《ひろこうじ》まで行って、馬丁が柳並み木のかげのところに馬を停《と》めたが、それがあの大都会の幼いものの目に映る最初の時であった。この道中に、彼は郷里から追分まで子供の足に歩かせ、それからはずっと木曾街道を通しの馬車であったが、それでも東京へはいるまでに七日かかった。植松夫婦は、名古屋生まれの鼻の隆《たか》いお婆さんや都育ちの男の子と共に、京橋|鎗屋町《やりやちょう》の住居《すまい》の方で宗太らを待ち受けていてくれたという。
 おまんをはじめ、半蔵夫婦、よめのお槇《まき》らは宗太のまわりを取りまいて、帰り路《みち》にもまた追分までは乗合馬車で来たとめずらしそうに言う顔をながめながら、この子供らの旅の話を聞いた。下隣に住むお雪婆さんまでそれを聞きにやって来た。下男の佐吉と下女のお徳とが二人《ふたり》ともそれを聞きのがすはずもない。お徳は和助のちいさい時分からあの子供を抱いたり背中にのせて子守唄《こもりうた》をきかせたりした長いなじみで、勝手の水仕事をするあかぎれの切れた手を出しては家のものの飯を盛ると、そればかりはあの子供にいやがられた仲だ。毎晩の囲炉裏ばたを夜業《よなべ》の仕事場とする佐吉はまた、百姓らしい大きな手に唾《つば》をつけてゴシゴシと藁《わら》を綯《な》いながら、狸《たぬき》の人を化かした話、畠《はたけ》に出る狢《むじな》の話、おそろしい山犬の話、その他無邪気でおもしろい山の中のお伽噺《とぎばなし》から、畠の中に赤い舌をぶらさげているものは何なぞの謎々《なぞなぞ》を語り聞かせることを楽しみにした子供の友だちだ。
「そう言えば、今度わたしは東京へ行って見て、姉さん(お粂《くめ》)の肥《ふと》ったには驚きましたよ。あの姉さんも、いい細君になりましたぜ。」
 宗太が思い出したように、そんな話を家のものにして聞かせると、
「ねえ、お母《っか》さん、色の白い人が肥ったのも、わるかありませんね。」
 飯田《いいだ》育ちのお槇《まき》もお民のそばにいて言葉を添える。
 その晩、半蔵は子供らが上京の模様にやや心を安んじて、お民と共に例の店座敷でおそくまで話した。過ぐる一年ばかりは和助もその部屋《へや》には寝ないで、年老いた祖母と共に提灯《ちょうちん》つけて裏二階の方へ泊まりに行ったことを彼は思い出し、とにもかくにもその末の子までが都会へ遊学する時を迎えたことを思い出し、先代吉左衛門も彼の年になってはよく枕《まくら》もとへ古風な手さげのついた煙草盆《たばこぼん》を引きよせたことなぞを思い出して、お民と二人の寝物語にまで東京の方のうわさで持ち切った。
「お民、お粂が結婚してから、もう何年になろう。植松のお婆さんでおれは思い出した。あの人の連れ合い(植松|菖助《しょうすけ》、木曾福島旧関所番)は、お前、維新間ぎわのごたごたの中でさ、他《よそ》の家中衆から名古屋臭いとにらまれて、あの福島の祭りの晩に斬《き》られた武士さ。世の中も暗かったね。さすがにあのお婆さんは尾州藩でも学問の指南役をする宮谷家から後妻に来たくらいの人だから、自分の旦那《だんな》の首を夜中に拾いに行って、木曾川の水でそれを洗って、風呂敷包《ふろしきづつ》みにして持って帰ったという話がある。植松のお婆さんはそういう人だ。琴もひけば、歌の話もする。あの人を姑《しゅうとめ》に持つんだから、お粂もなかなか気骨《きぼね》が折れようぜ。」
 半蔵夫婦のうわさが総領娘のことに落ちて行くころは、やがて夜も深かった。
「ホ、隣の人は返事しなくなった。きょうはお民もくたぶれたと見える。」
 と半蔵はひとり言って見て、枕もとの角行燈《かくあんどん》のかげにちょっと妻の寝顔をのぞいた。四十四歳まで彼と生涯をともにして来たこの気さくで働くことの好きな人は、夜の眠りまでなるがままに任せている。いつのまにか安らかな高いびきも聞こえて来る。その声が耳について、よけいに彼は目がさえた。
「酒。」
 そんなことを夜中に彼が言い出したところで、答える人もない。眠りがたいあまりに、彼は寝床からはい出して、手燭《てし
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