る木曾谷十六か村(三十三か村の併合による)の総代のものが半蔵の前にあらわれて来た。これは新任の長野県令あてに、木曾谷山地官民有の区別の再調査を請願する趣意で、その請願書を作るための参考に、明治四年十二月と同五年二月との二度にわたって半蔵らの作成した嘆願書、および彼の集めた材料の古書類を借り受けたいとの話が今度の発起者側からあった。もとより彼は王滝の旧戸長遠山五平と前に力をあわせ、互いに寝食を忘れるほどの奔走をつづけ、あちこちの村を訪《たず》ね回って旧戸長らの意見をまとめることに心を砕き、そのために主唱者とにらまれて戸長を免職させられたくらいだから、今度の発起者側からの頼みに異存のあろうはずもなかった。


 請願書の草稿はできた。翌明治十三年の二月にはいるころには、各村戸長の意見もまとまって、その草稿の写しが半蔵のもとにも回って来るほどに運んだ。それは十六、七枚からの長い請願書で、木曾谷山地古来の歴史から、維新以来の沿革、今回請願に及ぶまでのことが述べてあるが、筋もよく通り、古来人民の自由になし来たった場所はさらに民有に引き直して明治維新の徳沢に浴するよう寛大の御沙汰《ごさた》をたまわりたいとしたものであった。旧筑摩県の本山盛徳が権中属時代に調査済みの実際を見ると、全山三十八万町歩あまりのうち、その大部分は官有地となり、余すところの民有地はわずかにその十分の一に過ぎなくなった。そのため、困窮のあまり、官林にはいって罪を犯し処刑をこうむるものは明治六、七年以来数えがたく、そのたびに徴せらるる贖罪金《しょくざいきん》もまた驚くべき額に上った。これではどうしても山地の人民が立ち行きかねるから、各村に存在する旧記古書類をもっと精密に再調査ありたいとの意味も認《したた》めてある。この請願書の趣意はいかにも時宜に適したものだとして、半蔵なぞもひどくよろこんだ。
 ところが、これには異論が出て、いよいよ県庁へ差し出すまでにはところどころに草稿の訂正が加えられた。半蔵はそれを聞いてその訂正されたものを見たいと思い、宗太を通してさらに発起者側から写しの書類を送ってもらった。
「お父《とっ》さん、この請願書にはだいぶ貼《は》り紙《がみ》がしてありますよ。」
 そういう宗太ももはや一人前の若者で、木曾山の前途には関心を持つらしい。半蔵は宗太と一緒にその書類に見入った。享保《きょうほう》検地以来のことを記《しる》したあたりはことに省いてあって、そのかわり原案の草稿にない文句が半蔵の目についた。
 彼は宗太に言った。
「ホ、ここにも民有の権を継続してとあるナ。この書類はしばらくおれが借りて置く。よく読んで見る。」
 ひとりになってからの半蔵は繰り返しその請願書に目を通した。木曾のような辺鄙《へんぴ》な山の中に住んで、万事がおくれがちな人たちの中にも、いつのまにか世の新しい風潮を受け入れて、こんな山林事件にまで不十分ながらも民有の権利を持ち出すようになったことを想《おも》って見た。これが官尊民卑の旧習に気づいた上のことであるなら、とにもかくにも進歩と言わねばならなかった。最初彼が王滝の遠山五平らを語らい合わせて出発した当時の山林事件は、今のうちに官民協力して前途百年の方針を打ち建てて置きたいという趣意にもとづいた。というのは、従来木曾谷山地の処置については享保年度からの名古屋一藩かぎりの御制度であるから、郡県政治の時代となっては本県の管下も他郷一般の処置を下し置かれたい、それには享保以前の古《いにしえ》に復したいと願ったからであった。言って見れば、木曾谷の沿革には、およそ三期ある。第一期は享保以前で、山地には御役榑《おやくくれ》すなわち木租を納めさえすればその余は自由に伐木売買を許された時代、人民が山木と共にあった時代である。第二期は享保以後から明治維新に至るまで。この時代に巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区別ができ、入山《いりやま》伐木を人民の自由に許した明山たりとも五種の禁止木の制を立て、そのかわりに木租の上納は廃された。旧領主と人民との間に紛争の絶えなかった時代、人民がおもな山木に離れた時代である。それでもなお、五木以外の雑木と下草とは人民の自由で、切り畑焼き畑等の開墾もまた自由になし得た証拠は、諸村|山論済口《さんろんすみくち》の古証文、旧尾州領主よりの公認を証すべき山地の古文書、一村また数村の公約と見るべき書類等に残っている。のみならず幕府恩賜の白木六千|駄《だ》は追い追い切り換えの方法をもって代金二百三十一両三分銀十匁五分ずつ毎年谷中へ下げ渡されたことは、維新の際まで続いた。第三期は明治以来、木曾山の大部分は官有地と定められた時代、人民は明山の雑木と下草にも離れた時代である。半蔵らが享保以前の古に復したいとの最初の嘆願は、一部の禁止林を立て置かるるには異存がないから、その他の明山の開放を乞《こ》い、山地住民の義務を堅く約束して今一度山木と共にありたいとの趣意にほかならなかった。もっとも、多年人民の苦痛とする五木の禁止が何のためにあったのか。それほどまでにして尾州藩が木曾山を監視したのはどういう趣意にもとづいたのか。それが当時は十露盤《そろばん》ずくで引き合う山でもなく、結局尾州家の財源にもならなかったとすれば、万一の用材に応ずる森林の保護のためにあったのか。それとも東山道中の特別な要害地域を守る封建組織のためにあったのか。あるいはまた、木曾川下流の大きな氾濫《はんらん》に備えるためにあったのか。そこまでは半蔵らも知るよしがなかった。
 明治の御世《みよ》も、西南戦争あたりまでの十年間というものは半蔵には実に混沌《こんとん》として暗かった。あれから社会の空気も一転し、これまで諸方に蜂起《ほうき》しつつあった種々《さまざま》な性質の暴動もしずまり、だれが言うともない標語は彼の耳にも聞こえて来るようになった。この国のものはもっと強くならねばならない、もっと富まねばならないというのがそれだ。言いかえれば、富国と強兵とだ。しかしよく見れば、地方の人心はまだまだ決して楽しんではいない。日ごろ半蔵らの慕い奉る帝《みかど》が新時代の前途を祝福して万民と共に出発したもうたころのことが、また彼の胸に浮かぶ。あの時に帝の誓われた五つのお言葉と、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよと宣せられたその庶民との間には、いつのまにか天《あめ》の磐戸《いわと》にたとえたいものができた。その磐戸は目にも見えず、説き明かすこともできないが、しかし深い草叢《くさむら》の中にあるものはそれを感ずることはできた。それあるがために日の光もあらわれず、大地もほほえまず、君と民とも交わることができなかった。どうして彼がそんな想像を胸に描いて見るかというに、あの東山道軍が江戸をさして街道を進んで来た維新のはじめの際、どんな社会の変革でも人民の支持なしに成《な》し就《と》げられたためしのないように、新政府としては何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、東山道総督の執事がそのために幾度も布告を発し、堅く民意の尊重を約束したころは、そんな磐戸はまだ存在しなかったからであった。たまたまここに磐戸を開こうとしてあらわれて来た手力男《たぢからお》の命《みこと》にたとえたいような人もあった。その人の徳望と威力とは天下衆人に卓絶するものとも言われた。けれども、磐屋の前の暗さに変わりはない。力だけでは磐戸も開かれなかったのだ。
 こんな想像は、飛騨の旅の思い出と共に帰って来る半蔵の夢でしかないが、それほど彼の心はまだ暗かった。幾多の欠陥の社会に伏在すればこそ、天賦人権の新説も頭を持ち上げ、ヨーロッパ人の中に生まれた自由の理も喧伝《けんでん》せられ、民約論のたぐいまで紹介せられて、福沢諭吉《ふくざわゆきち》、板垣退助《いたがきたいすけ》、植木|枝盛《えもり》、馬場|辰猪《たつい》、中江|篤介《とくすけ》らの人たちが思い思いに、あるいは文明の急務を説き、あるいは民権の思想を鼓吹《こすい》し、あるいは国会開設の必要を唱うるに至った。真知なしには権利の説の是非も定めがたく、海の東西にある諸理想の区別をも見きわめがたい。ただただわけもなしに付和雷同する人たちの声は啓蒙《けいもう》の時にはまぬがれがたいことかもしれないが、それが郷里の山林事件にまで響いて来るので、半蔵なぞはハラハラした。物を教える人がめっきり多くなって、しかも学ぶに難い世の中になって来た。良心あるものはその声にきいて道をたどるのほかはなかったのである。
 この空気の中だ。今度木曾山を争おうとする人たちに言わせると、
「平田門人は復古を約束しながら、そんな古《いにしえ》はどこにも帰って来ないではないか。」
 というにあるらしい。
 これには半蔵は返す言葉もない。復古が復古であるというのは、それの達成せられないところにあると言ったあの暮田正香《くれたまさか》の言葉なぞを思い出して彼は暗然とした。ともあれ、県庁あての請願書はすでに差し出されたが、その結果もおぼつかなかった。たとい木曾谷の山林事件そのものがどう推し移ろうとも、旧領主時代からの長い紛争の種がこのままにして置けるはずもないから、自分らの代にできなければ子の代に伝えても、なんらかの良い解決を見いだしたいと彼は切に願った。


 その年は木曾地方の人民にとって記念すべき年であった。帝には東山道の御巡幸を仰せ出され、木曾路の御通過は来たる六月下旬の若葉のころと定められたからであった。
 この御巡幸は、帝としては地方を巡《めぐ》らせたもう最初の時でもなかったが、これまで信濃《しなの》の国の山々も親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて木曾川の流るるのを御覧になったら、西南戦争当時なぞの御心労は言うまでもなく、時の難さにさまざまのことを思《おぼ》し召されるであろうと、まずそれが半蔵の胸に来る。あの山城《やましろ》の皇居を海に近い武蔵《むさし》の東京に遷《うつ》し、新しい都を建てられた当初の御志《おんこころざし》に変わりなく、従来深い玉簾《ぎょくれん》の内にのみこもらせられた旧習をも打ち破られ、帝自らかく国々に御幸《みゆき》したまい、簡易軽便を本として万民を撫育《ぶいく》せられることは、彼にはありがたかった。封建君主のごときものと聞くヨーロッパの帝王が行なうところとは違って、この国の君道の床《ゆか》しさも彼には想《おも》い当たった。今度の御巡幸について地方官に諭《さと》された趣意も、親しく地方の民情を知《しろ》し召されたいのであって、百般の事務が形容虚飾にわたっては聖旨に戻《もと》るから、厚く人民の迷惑にならないよう取り計らうことが肝要であると仰せられ、道路|橋梁《きょうりょう》等のやむを得ない部分はあるいは補修を加うることがあろうとも、もとより官費に属すべきことで決して人民に難儀をかけまいぞと仰せられ、大臣以下|供奉《ぐぶ》の官員が旅宿はことさらに補修を加うるに及ばず、需要の物品もなるべく有り合わせを用いよと仰せ出されたほどであった。
 五月の来るころには、長野県の御用掛りが道路見分に奥筋から出張して来るようになった。馬籠の戸長役場のものはその人を村境まで案内し、絵図の仕立て方なぞを用意することになった。いよいよ御巡幸の御道筋も定まって見ると、馬籠駅御昼食とのことである。西|筑摩《ちくま》の郡長、郡書記も出張して来て、行在所《あんざいしょ》となるべき家は馬籠では旧本陣青山方と指定された。これには半蔵はひどく恐縮し、御駐蹕《ごちゅうひつ》を願いたいのは山々であるが、こんな山家にお迎えするのは恐れ多いとして、当主宗太を通して一応は御辞退する旨《むね》申し上げた。それには脇《わき》本陣|桝田屋《ますだや》方こそ、二代目|惣右衛門《そうえもん》のような名古屋地方にまで知られた町人の残した家のあとであるから、今の住居《すまい》は先年の馬籠の大火に焼けかわったものであるにしても、まだしも屋造りに見どころがあるとも申し上げたが、やはり青山の家の方が古い
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