ろこぶ色がある、あだかも長州征伐の時のようだなど言い触らすものさえある。きのうは宵《よい》の空に西郷星が出たとか、きょうは熊本との連絡も絶えて官軍の籠城《ろうじょう》もおぼつかないとか聞くたびに、ただただ彼は地方の人たちと共に心配をわかつのほかはなかった。
試みに、この戦争に参加した陸軍軍人およそ五万二百余人、屯田兵《とんでんへい》六百余、巡査隊一万千余人、軍艦十四隻、海軍兵員およそ二千百余人と想像して見るがいい。もしこれが徳川氏の末のような時代の出来事で、一切が国内かぎりの世の中であるなら、おそらくこの戦争の影響は長州征伐のたぐいではなかったであろう。これほどの出来事も過ぎ去った後になって見れば、維新途上の一小|波瀾《はらん》であったと考えるものもあるほど、押し寄せる世界の波は大きかった。戦争も終わりを告げるころには、西郷隆盛らは皆戦死し、その余波は当時政府の大立者《おおだてもの》たる大久保利通《おおくぼとしみち》の身にまで及んで行った。
この西南戦争が全国統一の機運を導いたことは、せめて不幸中の幸いであった。人民の疾苦、下のものの難渋迷惑はもとより言うまでもない。明治の歴史にもこれほどばかばかしく外聞の悪い事はあるまいと言い、惜しげもなく将軍職を辞し江戸城を投げ出した慶喜に対しても恥ずかしいと言って、昨日の国家の元勲が今日の賊臣とは何の事かと嘆息しながら死んで行った人もある。多くの薩摩|隼人《はやと》らが政府の要路に立つものに詰問の筋があると唱えて、ついに挙兵東上の非常手段に訴えたために、谷干城のごときは決死の敵を熊本城にくいとめ、身をもって先輩西郷氏の軍に当たった。この人にして見たら、敵将らの素志がこの社会の皮相なヨーロッパ化を堰《せ》きとめ、武士道を再興して人心を一新したいと願うところにあったとしても、四民平等の徴兵制度を無視して今さら封建的な旧士族制を回復するとは何事ぞとなし、たとい武力をもって国家の進路を改めようとする百の豪傑が生まれて来るとも、自分らは迷うところなく進もうと言ったであろう。ともあれ、この戦争はいろいろなことを教えた。政府が士族の救済も多く失敗に帰し、戊辰《ぼしん》当時の戦功兵もまた報いらるるところの少なかったために、ついに悲惨な結果を生むに至ったことを教えたのもこの戦争であった。西郷隆盛らは古武士の最後のもののように時代から沈んで行ったが、しかし武の道のゆるがせにすべきでないことを教えたのもこの戦争であった。もし政府が人民の政府であることを反省しないで威と名の一方にのみ注目するなら、その結果は測りがたいものがあろうことを教えたのもまたこの戦争であった。まったく、一時はどんな形勢に陥らないとも知りがたかった。どうやら時勢はあと戻《もど》りし、物情は恟々《きょうきょう》として、半蔵なぞはその間、宮司の職も手につかなかった。
しかし、半蔵が飛騨での経験はこんな西南戦争の空気の中に行き悩んだというばかりではない。
飛騨の位山《くらいやま》は、平安朝の婦人が書き残したものにも「山は位山」とあるように、昔から歌枕《うたまくら》としても知られたところである。大野郡、久具野《くぐの》の郷《さと》が位山のあるところで、この郷は南は美濃の国境へおよそ十六里、北は越中《えっちゅう》の国境へ十八里、東は信濃の国境へ十一里、西は美濃の国境へ十里あまり。まずこの山が飛騨の国の中央の位置にある。古来帝都に奉り、御笏《おんしゃく》の料とした一位《いちい》の木(あららぎ)を産するのでも名高い。この山のふもとに置いて考えるのにふさわしいような人を半蔵は四年あまりの飛騨生活の間に見つけた。もっとも、それは現存の人ではなく、深い足跡をのこして行った故人で、しかもかなりの老年まで生きた一人の翁《おきな》ではあったが。
まだ半蔵は狩野永岳《かのうえいがく》の筆になったというこの翁の画像の前に身を置くような気がしている。この人の建立《こんりゅう》した神社の内部に安置してあった木像のそばにも身を置くような気がしている。彼の胸に描く飛騨の翁とは、いかにも山人《やまびと》らしい風貌《ふうぼう》をそなえ、杉《すぎ》の葉の長くたれ下がったような白い粗《あら》い髯《ひげ》をたくわえ、その広い額や円味《まるみ》のある肉厚《にくあつ》な鼻から光った目まで、言って見れば顔の道具の大きい異相の人物であるが、それでいて口もとはやさしい。臼《うす》のようにどっしりしたところもある。この人が田中|大秀《おおひで》だ。
田中大秀は千種園《ちぐさえん》のあるじといい、晩年の号を荏野《じんや》翁、または荏野老人ともいう。本居宣長の高弟で、宣長の嗣子本居|大平《おおひら》の親しい学友であり、橘曙覧《たちばなあけみ》の師に当たる。その青年時代には尾張熱田の社司|粟田知周《あわたともちか》について歌道を修め、京都に上って冷泉《れいぜい》殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊《ばんこうけい》に師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。
荏野の翁が事蹟《じせき》も多い。飛騨の国内にある古社の頽廃《たいはい》したのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老の瀑《たき》の由緒《ゆいしょ》を明らかにした碑を建て、あるいは美濃|垂井清水《たるいしみず》に倭建命《やまとたけるのみこと》の旧蹟を考証して、そこに居寤清水《いさめのしみず》の碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前《えちぜん》足羽《あすは》神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎《こんたい》両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺《ぼだいじ》はもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各|檀家《だんか》のものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことを覚《さと》らしめた。思いがけないような滑稽《こっけい》がこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。
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オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。
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半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の笑いだ。おそらく新時代に先立つほど早くこの世を歩いて行った人で、その周囲と戦わなかったものはあるまい。そう想《おも》って見ると、翁がかずかずの著書は、いずれも明日のしたくを怠らなかったもので、まだ肩揚げのとれないような郷里の子弟のために縫い残した裄丈《ゆきたけ》の長い着物でないものはない。
田中大秀のごとき先輩の国学者の笑った生涯にすら、よく探れば涙の隠れたものがある。まして後輩の半蔵|風情《ふぜい》だ。水無神社宮司としての彼は、神仏分離の行なわれた直後の時に行き合わせた。人も知るごとく飛騨の高山地方は京都風に寺院の多いところで、神仏|混淆《こんこう》の長い旧習は容易に脱けがたく、神社はまだまだ事実において仏教の一付属たるがごとき観を有し、五、六十年前までは神官と婚姻を結ぶなら地獄《じごく》に堕《お》ちるなど言われて、相応身分の者は神官と婚姻を結ぶことさえ忌み避けるほどの土地柄であった。国幣小社なる水無神社ですら、往時は一の宮八幡とも一の宮大明神とも言い、法師別当らの水無|大菩薩《だいぼさつ》など申して斎《いつ》き奉った両部の跡であった。彼が赴任して行って見たころの神社の内部は、そこの簾《すだれ》のかげにも、ここの祓《はら》い戸《ど》にも、仏教経巻などの置かれた跡でないものはなかった。なんという不思議な教えが長いことこの国人の信仰の的となっていたろう。そこにあったものは、肉体を苦しめる難行苦行と、肉体的なよろこびの崇拝と、その両極端の不思議に結びついたもので、これは明らかに仏教の変遷の歴史を語り、奈良朝以後に唐土《とうど》から伝えられた密教そのものがインド教に影響された証拠だと言った人もある。多くの偶像と、神秘と、そして末の世になればなるほど多い迷信と。一方に易《やす》く行ける浄土の道を説く僧侶《そうりょ》もまた多かったが、それはまた深く入って浅く出る宗祖の熱情を失い、いたずらに弥陀《みだ》の名をとなえ、念仏に夢中になることを教えるようなものばかりで、古代仏教徒の純粋で厳粛な男性的の鍛錬《たんれん》からはすこぶる遠かった。そういうものの支配する世界へ飛び込んで行って、一の宮宮司としての半蔵がどれほどの耳を傾ける里人を集め、どれほどの神性を明らかにし得たろう。愚かに生まれついた彼のようなものでも、神に召され、高地に住む人々に満足するような道を伝えたいと考え、この世にはまだ古《いにしえ》をあらわす道が残っていると考え、それを天の命とも考えて行った彼ではあるが、どうして彼は自ら思うことの十が一をも果たせなかった。維新以来、一切のものの建て直しとはまだまだ名ばかり、朝に晩に彼のたたずみながめた神社の回廊の前には石燈籠《いしどうろう》の立つ斎庭《ゆにわ》がひらけ、よく行った神門のそばには冬青《そよぎ》の赤い実をたれたのが目についたが、薄暗い過去はまだそんなところにも残って、彼の目の前に息づいているように見えた。
四年あまりの旅の末には教部省の方針も移り変わって行った。おそらく祭政一致の行なわれがたいことを知った政府は、諸外国の例なぞに鑑《かんが》みて、政教分離の方針を執るに至ったのであろう。この現状に平らかでない神官は任意辞職を申しいでよとあって、全国大半の諸神官が一大交代も行なわれた。元来高山中教地は筑摩《ちくま》県の管轄区域であったが、たまたまそれが岐阜《ぎふ》県の管轄に改められる時を迎えて見ると、多くの神官は世襲で土着する僧侶とも違い、その境涯《きょうがい》に安穏な日も送れなかった。高山町にある神道事務支局から支給せらるる水無神社神官らが月給の割り当ても心細いものになって行った。半蔵としては、本教を振るい興したいにも資力が足らず、宮司の重任をこうむりながらも事があがらない。しまいには、名のつけようのない寂寞《せきばく》が彼の腰や肩に上るばかりでなく、彼の全身に上って来た。
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きのふけふしぐれの雨ともみぢ葉とあらそひふれる山もとの里
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こんな歌が宮村の仮寓《かぐう》でできたのも前年の冬のことであり、同じ年の夏には次ぎのようなものもできた。
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おのがうたに憂《う》さやなぐさむさみだれの雨の日ぐらし早苗《さなえ》とるなり
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梅雨期の農夫を憐《あわれ》む心は、やがて彼自ら憐む心であった。平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとの願いから、彼も細い一筋道をたどって、日ごろの願いとする神の住居《すまい》にまで到《いた》り着いたが、あの木曾の名所図絵にもある園原の里の「帚木《ははきぎ》」のように、彼の求めるものは追っても追っても遠くなるばかり。半生の間、たまりにたまっていたような涙が飛騨の山奥の旅に行って彼のかたくなな胸の底
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