らの長い流浪《るろう》、東京での教部省奉職の日から数えると、足掛け六年ぶりで彼も妻子のところへ帰って来ることができた。当主としての長男宗太はようやく二十二歳の若さで、よめのお槇《まき》とてもまだ半分娘のような初々《ういうい》しい年ごろであり、これまでに雛《ひな》の夫婦を助けて長い留守を預かったお民がいくらか老いはしても相変わらずの元気を持ちつづけ、うどんなど打って彼を待ち受けていてくれたと聞いた時は、まず彼も胸が迫った。そのうちに、おまんも杖《つえ》をついて裏二階の方から通《かよ》って来た。いよいよ輝きを加えたこの継母の髪の白さにも彼の頭はさがる。そばへ集まって来た三男の森夫はすでに十一歳、末の和助は八歳にもなる。これにも彼は驚かされた。
帰国後の半蔵はいろいろ応接にいとまがないくらいであった。以前彼の飛騨行きを機会に長の暇乞《いとまご》いを告げて行った下男の佐吉は、かみさんとも別れたと言って、また山口村から帰って来て身を寄せている。旧本陣問屋庄屋時代から長いこと彼の家に通った清助は、と聞くと、今は隣家伏見屋の手伝いにかわって、造り酒屋の番頭格として働くかたわら、事あるごとにお民や宗太の相談相手となりに来てくれるという。村の髪結い直次の娘で、幼い和助が子守時代からずっと奉公に来ているお徳は、これも水仕事にぬれた手を拭《ふ》きふき、台所の流しもとから彼のところへお辞儀に来る。その時は飛騨から供の六三郎も重い荷物を背中からおろし、足を洗って上がった。この飛騨の若者はまた、ひどくくたぶれたらしい足を引きずりながらも家のものに案内されて、青山の昔を語る広い玄関先から、古い鎗《やり》のかかった長押《なげし》、次の間、仲の間、奥の間、諸大名諸公役らが宿場時代に休息したり寝泊まりしたりして行った上段の間までも、めずらしそうに見て回るほど元気づいた。
六三郎はお民に言った。
「奥さま、もうお忘れになったかもしれませんが、あなたさまが飛騨の方へお越しの節に宮司さまに頼まれまして、久津八幡までお迎えに出ました六三郎でございます。」
日の暮れるころから、旧知|親戚《しんせき》のものは半蔵を見に集まって来た。赤々とした炉の火はさかんに燃えた。串差《くしざ》しにして炙《あぶ》る小鳥のにおいは広い囲炉裏ばたにみちあふれたが、その中には半蔵が土産《みやげ》の一つの加子母峠《かしもとうげ》の鶫《つぐみ》もまじっていると知られた。その晩、うどん振舞《ぶるまい》に招かれて来た人たちは半蔵のことを語り合うにも、これまでのように「本陣の旦那《だんな》」と呼ぶものはない。いずれも「お師匠さま」と呼ぶようになった。
「あい、お師匠さまがお帰りだげなで、お好きな山の芋《いも》を掘ってさげて来た。」
尋ねて来る近所の婆《ばあ》さんまでが、その調子だ。やがて客人らは寛《くつろ》ぎの間《ま》に集まって、いろいろなことを半蔵に問い試みた。飛騨の国幣小社水無神社はどのくらいの古さか。神門と拝殿とは諏訪《すわ》の大社ぐらいあるか。御神馬の彫刻はだれの作か。そこには舞殿《まいどの》があり絵馬殿《えまでん》があり回廊があるか。御神木の拗《ねじ》の木とは何百年ぐらいたっているか。一の宮に特殊な神事という鶏毛打《とりげうち》の古楽にはどのくらいの氏子が出て、どんな衣裳《いしょう》をつけて、どんな鉦《かね》と太鼓を打ち鳴らすかの類《たぐい》だ。六三郎はおのが郷里の方のうわさをもれききながら、御相伴《ごしょうばん》のうどんを味わった後、玄関の次の間の炬燵《こたつ》に寝た。
翌朝、飛騨の若者も別れを告げて行った。家に帰って来た半蔵はもはや青山の主人ではない。でも、彼は母屋《もや》の周囲を見て回ることを久しぶりの楽しみにして、思い出の多い旧会所跡の桑畠《くわばたけ》から土蔵の前につづく裏庭の柿《かき》の下へ出た。そこに手ぬぐいをかぶった妻がいた。
「お民、吾家《うち》の周囲《まわり》も変わったなあ。新宅(下隣にある青山の分家、半蔵が異母妹お喜佐の旧居)も貸すことにしたね。変わった人が下隣にできたぞ。あの洒落《しゃれ》ものの婆さんは村の旦那衆を相手に、小料理屋なぞをはじめてるそうじゃないか。」
「お雪婆さんですか。あの人は中津川から越して来ましたよ。」
「だれがああいう人を引ッぱって来たものかなあ。それに、この土地に不似合いな小女《こおんな》なぞも置いてるような話だ。そりゃ目立たないように遊びに行く旦那衆は勝手だが、宗太だっても誘われれば、否《いや》とは言えない。まあ、おれももう隠居の身だ。一切口を出すまいがね、ああいう隣の女が出入りしても、お前は気にならないかい。」
「そんなことを言うだけ、あなたも年を取りましたね。」
お民は快活に笑って、夫の留守中に苦心して築き上げたことの方にその時の立ち話をかえた。過ぐる年月の間、彼女の絶え間なき心づかいは、いかにして夫から預かったこの旧家を安らかに持ちこたえて行こうかということであった。それには一切を手造りにして、茶も自分の家で造り、蚕も自分で飼い、糸も自分で染め、髪につける油まで庭の椿《つばき》の実から自分で絞って、塩と砂糖と藍《あい》よりほかになるべく物を買わない方針を取って来たという。森夫や和助のはく草履《ぞうり》すら、今は下男の夜なべ仕事に家で手造りにしているともいう。これはすでに妻籠《つまご》の旧本陣でも始めている自給自足のやり方で、彼女はその生家《さと》で見て来たことを馬籠の家に応用したのであった。
間もなくお民は古い味噌納屋《みそなや》の方へ夫を連れて行って見せた。その納屋はおまんが住む隠居所のすぐ下に当たる。半蔵から言えば、先々代半六をはじめ、先代吉左衛門が余生を送った裏二階の下でもある。冬季のために野菜を貯《たくわ》えようとする山家らしい営みの光景がそこに開けた。若いよめのお槇《まき》は母屋《もや》から、下女のお徳は井戸ばたから、下男佐吉は木小屋の方から集まって来て、洗いたての芋殻《いもがら》(ずいき)が半蔵の眼前に山と積まれた。梅酢《うめず》と唐辛子《とうがらし》とを入れて漬ける四斗樽《しとだる》もそこへ持ち運ばれた。色も紅《あか》く新鮮な芋殻を樽のなかに並べて塩を振る手つきなぞは、お民も慣れたものだ。
母屋の周囲を一回りして来て、おのれの書斎とも寝部屋ともする店座敷の方へ引き返して行こうとした時、半蔵は妻に言った。
「お民、お前ばかりそう働かしちゃ置かない。」
そう言う彼は、子弟の教育に余生を送ろうとして、この古里に帰って来たことを妻に告げた。彼もいささか感ずるところがあってその決心に至ったのであった。
四
飛騨《ひだ》の四年あまりは、半蔵にとって生涯《しょうがい》の旅の中の最も高い峠というべき時であった。在職二年にして彼は飛騨の人たちと共に西南戦争に際会した。遠く戦地から離れた山の上にありながらも、迫り来る戦時の空気と地方の動揺とをも経験した。王政復古以来、「この維新の成就するまでは」とは、心あるものが皆言い合って来たことで、彼のような旧庄屋|風情《ふぜい》でもそのために一切を忍びつづけたようなものである。多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てた時。報いらるるのすくない戸長の職にも甘んじた時。あの郡県政治が始まって木曾谷山林事件のために彼なぞは戸長の職を剥《は》がれる時になっても、まだまだ多くの深い草叢《くさむら》の中にあるものと共に時節の到来を信じ、新しい太陽の輝く時を待ち受けた。やかましい朝鮮問題をめぐって全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰《ぼしん》以来の政府内部に分裂の行なわれたと聞く時になっても、まだそれでも彼なぞは心を許していた。内争の影響するところは、岩倉右大臣の要撃となり、佐賀、熊本《くまもと》の暴動となり、かつては維新の大業をめがけて進んだ桐野利秋《きりのとしあき》らのごとき人物が自ら参加した維新に反して、さらに新政の旗をあげ、強い武力をもってするよりほかに今日を救う道がないとすると聞くようになって、つくづく彼はこの維新の成就さるる日の遠いことを感じた。
西南戦争を引き起こした実際の中心人物の一人《ひとり》とも目すべき桐野利秋とはどんな人であったろう。伝うるところによれば、利秋は陸軍少将として明治六年五月ごろまで熊本鎮台の司令長官であった。熊本鎮台は九州各藩の兵より成り、当時やや一定の法規の下にはあったが、多くは各藩混交のわがまま兵であるところから、その統御もすこぶる困難とされていた。古英雄の風《ふう》ある利秋はまた、区々たる規則をもって兵隊を拘束することを好まない人で、多くは放任し、陸軍省の法規なぞには従わなかった。もとより本省の命令が鎮台兵の間に行なわるべくもない。この桐野流をよろこばない本省では、谷干城《たにたてき》に司令長官を命じ、利秋は干城と位置を換え陸軍裁判長となったことがある。その時の利秋の不平は絶頂に達して、干城に対し山県大輔《やまがたたいふ》をののしった。その言葉に、彼山県は土百姓らを集めて人形を造る、はたして何の益があろうかと。大輔をののしるのはすなわち干城をののしるのであった。元来利秋は農兵を忌みきらって、兵は士族に限るものと考えた人であった。これが干城と利秋との永《なが》の別れであったともいう。全国徴兵の新制度を是認し大阪鎮台兵の一部を熊本に移してまでも訓練と規律とに重きを置こうとする干城と、その正反対に立った利秋とは、ついに明治十年には互いに兵火の間に相見《あいまみ》ゆる人たちであった。
この戦争は東北戦争よりもっと不幸であった。なぜかなら、これはそのそもそもの起こりにおいて味方同志の戦争であるのだから。体内の血が逆に流れ、総身の毛筋が逆立《さかだ》つような内部の苦しい抗争であるのだから。そして、かつての官武一途も上下一和も徳川幕府を向こうに回しての一途一和であって、いったん共同の敵たる慶喜《よしのぶ》の倒れた上は味方同志の排斥と暗闘もまたやむを得ないとする国内の不一致を世界万国に向かって示したようなものであるから。よもや起《た》つまいと言われた西郷隆盛《さいごうたかもり》のような人までがたって、一万五千人からの血気にはやる子弟と運命を共にするようになった。長州の木戸孝允《きどたかよし》のごとき人はそれを言って、西郷ありてこそ自分らも薩摩《さつま》と合力《ごうりき》し、いささか維新の盛時にも遭遇したものであるのに、と地団駄《じだんだ》を踏んだ。この隆盛の進退はよくよく孝允にも惜しまれたと見えて、人は短所よりむしろ長所で身を誤る、西郷老人もまた長ずるところをもって一朝の憤りに迷い末路を誤るのは実に残念千万であると言ったという。開戦は十年二月|晦日《みそか》であった。薩摩方も予想外に強く、官軍は始終大苦戦で、開戦後四十日の間にわずかに三、四里の進軍と聞いて、孝允なぞはこれを明治の帝《みかど》が中興に大関係ある白骨勝負と見た。そして、今度の隆盛らの動きは無名の暴発であるから、天下の方向も幸いに迷うことはあるまいが、もともと明治維新と言われるものがまるで手品か何かのようにうまくととのったところから、行政の官吏らがすこしも人世の艱苦《かんく》をなめないのにただただその手品のようなところのみをまねて、容易に一本の筆頭で数百年にもわたる人民の生活や慣習を破り去り、功名の一方にのみ注目する時弊は言葉にも尽くせない、天下の人心はまだまだ決して楽しんではいない、このありさまを目撃しては血涙のほかはないと言って、時代を憂い憂い戦時の空気の中に病み倒れて行ったのも孝允であった。
これくらいの艱難がこの国維新の途上に沸いて来るのは当然であったかもしれない。飛騨の辺鄙《へんぴ》な山の中でこの戦争を聞いていた半蔵ごときものでも、西からの戦報を手にするたびに安い心はなかった。戦争が長引けば長引くほど山の中にはいろいろなことを言う者が出て来て、土州因州あたりは旧士族ばかりでなく一般の人々の気受けも薩摩の捷報《しょうほう》をよ
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