度飛騨まで訪《たず》ねて行ったのは、あれは前年の秋九月の下旬あたりに当たる。しばらく飛騨からの便りも絶え、きっと半蔵は病気でもしているに相違ないと言われたころのことだ。馬も通わないという嶮岨《けんそ》な加子母峠《かしもとうげ》を越して、か弱い足で二十余里の深い山道を踏んで行ったことは、夫を思う女の一心なればこそそれができた。よくよくあの旅は骨が折れたと見えて、あとになってお民が風呂《ふろ》でももらいに伏見屋へ通《かよ》って来るおりにはよくその話が出る。久津八幡《くづはちまん》は飛騨の宮村から八里ほど手前にあるところだという。その辺までお民がたどり着いた時、向こうから益田《ましだ》街道をやって来る一人の若者にあった。その若者が近づいて、ちょっとお尋ねしますが、もしやあなたさまは水無神社の宮司さまのところへ行かれる奥さまではありませんか、と声をかけたという。いかにも、そうです、と答えた時のお民は、自分を待ち受けていてくれる夫の仮寓《かぐう》の遠くないことを知り、わざわざ彼女を迎えに来てくれた土地の若者であることをも知った。それはそれは御苦労さま、というお民の言葉をうけて、わしは宮司さまから頼まれて迎えにまいった近所のものでございます、空身《からみ》ですから荷物を持って行きましょう、とその若者が言ってくれる、お民の方ではそれを断わって、主人も待って心配していようから、これからすぐ引き返して、「無事に来よるが」と伝えてください、と答えたとのことである。それからお民は八里ほど進んで、いかにも山深い宮峠のふもとの位置に、東北には木曾の御嶽山の頂《いただき》も遠く望まれるようなところに、うわさにのみ聞く水無川の河原を見つけたという。お民はそう長くも夫のそばにいなかったが、ちょうど飛騨の宮祭りのころであったことが一層彼女の旅を忘れがたいものにしているとか。
「なあ、お富。」とまた伊之助が枕の上で言い出した。「四年は長過ぎたなあ。」
「半蔵さんの飛騨がですか。」
「そうさ。」
「わたしに言わせると、はじめからあのお民さんを連れて行かなかったのは、うそでしたよ。」
「うん、それもあるナ。まあいい加減に切り揚げて、早く馬籠へお帰りなさるがいい。あの半蔵さんが四十代で隠居して、青山の家を子に譲って、それから水無神社の宮司をこころざして行ったと思ってごらん。忘れもしない――あの人がおれのところへ暇乞《いとまご》いに来て、自分はもう古い青山の家に用のないような人間だから、お袋(おまん)の言葉に従ったッて、そう言ったよ。あの時は、お粂さんもまだ植松のお嫁さんに行かない前で、あれほど物を思い詰めるくらいの娘だから、こう顔を伏せて、目の縁《ふち》の紅《あか》く腫《は》れるほど泣きながら、飛騨行きのお父《とっ》さんを見送ったッけが、お粂さんにはその同情があったのだね。あれから半蔵さんが途中の中津川からおれのところへ手紙をよこした。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えるなんて。ああいうところが半蔵さんらしい。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない、あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいなんて書いてよこしたことを覚えている。えらい意気込みさね。なんでも飛騨の方から出て来た人の話には、今度の水無神社の宮司さまのなさるものは、それは弘大な御説教で、この国の歴史のことや神さまのことを村の者に説いて聞かせるうちに、いつでもしまいには自分で泣いておしまいなさる。社殿の方で祝詞《のりと》なぞをあげる時にも、泣いておいでなさることがある。村の若い衆なぞはまた、そんな宮司さまの顔を見ると、子供のようにふき出したくなるそうだ。でも、あの半蔵さんのことを敬神の念につよい人だとは皆思うらしいね。そういう熱心で四年も神主《かんぬし》を勤めたと考えてごらんな、とてもからだが続くもんじゃない。もうお帰りなさるがいい、お帰りなさるがいい――そりゃ平田門人というものはこれまですでになすべきことはなしたのさ、この維新が来るまでにあの人たちが心配したり奔走したりしたことだけでもたくさんだ、だれがなんと言ってもあの骨折りが埋《うず》められるはずもないからナ。」
こんなうわさが尽きなかった。
山里も朴《ほお》、栃《とち》、すいかずらの花のころはすでに過ぎ去り、山百合《やまゆり》にはやや早く、今は藪陰《やぶかげ》などに顔を見せる※[#「くさかんむり/(楫のつくり+戈)」、第3水準1−91−28]草《どくだみ》や谷いっぱいに香気をただよわす空木《うつぎ》などの季節になって来ている。木の実で熟するものには青梅、杏《あんず》などある中に、ことに伊之助に時を感じさせるのは、もはや畦塗《あぜぬ》りのできたと聞く田圃《たんぼ》道から幼い子供らの見つけて来る木いちごであった。
お富や子供らのこと考えるたびに、伊之助の腋《わき》の下には冷たいねばりけのある汗がわく。その汗は病と戦おうとする彼の精神《こころ》から出る。隣村山口から薬箱をさげて通《かよ》って来る医者|杏庵《きょうあん》老も多くを語らないから、病勢の進みについては彼は何も知らない。ただ、はっきりとした意識にすこしの変わりもなく、足ることを知り分に安んぜよとの教えを町人の信条とすることにも変わりなく、親しい半蔵と相見うるの日を心頼みにした。もはや日に日に日も長く、それだけまた夜は短い。どうして彼はその夏を越そうと考えて、枕《まくら》もとに置く扇なぞを見るにつけても、明けやすい六月の夜を惜しんだ。
三
十月下旬になって、半蔵は飛騨《ひだ》から帰国の旅を急いで来た。彼は四年あまりの一の宮(水無神社)を辞し、神社でつかっていた小使いの忰《せがれ》に当たる六三郎を供に連れ、位山《くらいやま》をもあとに見て飛騨と美濃《みの》の国境《くにざかい》を越して来た。供の男は二十三、四歳の屈強な若者で、飛騨風な背板《せいた》(背子《せいご》ともいう)を背中に負い、その上に行李《こうり》と大風呂敷《おおぶろしき》とを載せていたが、何しろ半蔵の荷物はほとんど書物ばかりで重かったから、けわしい山坂にかかるたびに力を足に入れ、腰を曲《かが》め気味に道を踏んでは彼について来た。木曾《きそ》あたりと同じように、加子母峠《かしもとうげ》は小鳥で名高い。おりから、鶫《つぐみ》のとれる季節で、半蔵は途中の加子母というところでたくさんに鶫を買い、六三郎と共にそれを旅の中食に焼いてもらって食ったが、余りの小鳥まで荷物になって、六三郎の足はよけいに重かった。
美濃と信濃《しなの》の国境に当たる十曲峠へかかるまでに、半蔵らは三晩泊まりもかかった。そこまで帰って来れば、松の並み木の続いた木曾街道を踏んで行くことができる。東美濃の盆地を流れる青い木曾川の川筋を遠く見渡すこともできる。光る木の葉、その葉の色づいて重なり合った影は、半蔵らが行く先にあった。路傍に古い黒ずんだ山石の押し出して来ているのを見つけると、供の六三郎は荷物を背負ったままそこへ腰掛け、額《ひたい》の汗をふいて、しばらく足を休めてはまた半蔵と一緒に歩いた。
「おゝ、半蔵さまが帰って来た。」
その久しぶりの平兵衛の声を半蔵は峠の新茶屋まで行った時に聞きつけた。このお頭《かしら》は、諸講中の下げ札や御休処《おやすみどころ》とした古い看板のかかった茶屋の軒下を出たりはいったりして、そこに彼を出迎えていてくれたのだ。伏見屋金兵衛の記念として残った芭蕉《ばしょう》の句塚《くづか》までが、その木曾路の西の入り口に、旅人の目につく路傍の位置に彼を迎えるように見えている。
伏見屋と言えば、伊之助はその時もはやこの世にいない人であった。半蔵が飛騨の山の方で伊之助の亡《な》くなったのを聞いて来たのはその年の暑いさかりのころに当たる。彼は伏見屋からの通知を受け取って見て、かねて病床にあった伊之助が養生もかなわず、にわかに病勢の募ったための惜しい最期であったことを知った。享年四十五歳。遺骸《いがい》は故人の遺志により神葬にして万福寺境内の墓地に葬る。なお、長男一郎は二代目伊之助を襲名するともその通知にあった。とうとう、半蔵は伊之助の死に目にもあわずじまいだ。馬籠荒町の村社|諏訪《すわ》分社の前まで帰って来た時、彼は無事な帰村を告げに参詣《さんけい》したり、禰宜《ねぎ》松下千里の家へも言葉をかけに立ち寄ったりすることを忘れなかったが、かつて駅路一切の奔走を共にしたあの伊之助が草葉の陰にあるとは、どうしても彼にはまことのように思われもしなかった。
馬籠の仲町近くまで帰ると、彼はもう幾人かの成人した旧《ふる》い教え子にあった。
「お師匠さま。」
と呼んでいち早く彼の姿を見つけながら走り寄る梅屋の三男|益穂《ますほ》があり、伏見屋の三男三郎がある。その辺は仮の戸長役場にも近く、筑摩《ちくま》県と長野県とに分かれた信濃の国の管轄区域を合併して郡県の名までが彼の留守中に改まった。これは馬籠というところかの顔つきで、背中に荷物をつけながら坂になった町を登って来る供の六三郎は、どうかすると彼におくれた。彼は途中で六三郎の追いつくのを待ちうけて、戸長役場の前を往還側に建てられてある標柱のところへ行って一緒に立った。
その高さ九尺ばかり。表面には改正になった郡県の名が筆太に記されてあり、側面にやや小さな文字で東西への里程を旅人に教えているのも、その柱だ。
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長野県西筑摩郡|神坂《みさか》村
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馬籠の旧《ふる》い宿場も建て直ろうとする最中の時である。二十五人、二十五匹の宿人足と御伝馬とは必ず用意して置くはずの宿場にも、その必要がなくなってからは、一匹の御伝馬につき買い入れ金十八両ほどずつ、一人《ひとり》の宿人足につき手当て七両二分ほどずつ受けて来た人たちも、勢い生活の方法を替えないわけには行かない。伊勢《いせ》へ、津島へ、金毘羅《こんぴら》へ、御嶽《おんたけ》へ、あるいは善光寺への参詣者《さんけいしゃ》の群れは一新講とか真誠講とかの講中を組んで相変わらずこの街道にやって来る。ここを通商路とする中津川方面の商人、飯田《いいだ》行きの塩荷その他を積んだ馬、それらの通行にも変わりはない。しかし旧宿場に衣食して来た御伝馬役や宿人足、ないし馬差《うまざし》、人足差《にんそくざし》の人たちはもはやそれのみにたよれない。目証《めあかし》もとくに土地を去り、雲助もいつのまにか離散して見ると、中牛馬会社の輸送に従事する以外のものは開墾、殖林、耕作、養蚕、その他の道についた。切り畑焼き畑を開いて稗《ひえ》蕎麦《そば》等の雑穀を植えるもの、新田を開いて柴草《しばくさ》を運ぶもの、皆元気いっぱいだ。馬籠は森林と岩石との間であるばかりでなく、傾斜の多い地勢で水利の便もすくなく、荒い笹刈《ささが》りには蚋《ぶよ》や藪蚊《やぶか》を防ぐための火繩《ひなわ》を要し、それも恵那山のすその谷間の方へ一里も二里もの山道を踏まねばならないほど骨の折れる土地柄であるが、多くのものはそれすらいとわなかった。宿場の行き詰まりは、かえってこの回生の活気を生んだ。そこへ行くと、新規まき直しの困難はむしろ従来宿役人として上に立った人たち、その分家、その出店《でみせ》なぞの家柄を誇るものの方に多い。というのは、今までの生活ぶりも一様ではなく、心がけもまちまちで、それになんと言っても長い間の旦那衆|気質《かたぎ》から抜け切ることも容易でないからであった。そういう中で、梅屋のように思い切って染め物屋を開業したところもある。旧のごとく街道に沿うた軒先に杉《すぎ》の葉の円《まる》く束にしたものを掛け、それを清酒の看板に代えているのは、二代目伊之助の相続する伏見屋のみである。
半蔵が帰り着いたのはこうしたふるさとだ。彼が飛騨からの若者と共に、変わらずにある青山の家の屋根の下に草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いたのは午後の三時ごろであった。もとより新しい進路を開きたいとの思い立ちからとは言いながら、国を出てか
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