い》の淵《ふち》をのぞいて見たものも、この早熟な娘だ。
「おゝ、お粂か。」
と半蔵は声をかけながら、いっぱいに古い書類のちらかった部屋の内を歩き回っていた。お粂ももはや二十歳の春を迎えている。死をもって自分の運命を争おうとしたほどの娘のところへも、新規な結婚話が、しかも思いがけない木曾福島の植松家の方から進められて来て、不思議な縁の、偶然の力に結ばれて行こうとしている。
「お父《とっ》さん。やっとわたしも決心がつきました。」
お粂はそれを言って見せたぎり、堅く緋《ひ》ぢりめんの半襟《はんえり》をかき合わせ、あだかも一昨年《おととし》の古疵《ふるきず》の痕《あと》をおおうかのようにして、店座敷から西の廊下へ通う薄暗い板敷きの方へ行って隠れた。
三日過ぎには半蔵は中津川まで動いた。この飛騨行きに彼は妻を同伴したいと思わないではなく、今すぐにと言わないまでも、先へ行って落ち着いたら妻を呼び迎えたいと思わないではなかったが、どうしてお民というものが宗太の背後《うしろ》にいなかったら、馬籠の家は立ち行きそうもなかった。下男佐吉も今度は別れを惜しんで、せめて飛騨の宮村までは彼の供をしたいと言い出したが、それも連れずであった。旅の荷物は馬につけ、出入りの百姓兼吉に引かせ、新茶屋の村はずれから馬籠の地にも別れて、信濃《しなの》と美濃《みの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》の雪道を下って来た。
中津川では、半蔵は東京の平田|鉄胤《かねたね》老先生や同門の医者金丸恭順などの話を持って、その町に住む二人《ふたり》の旧友を訪《たず》ねた。長く病床にある香蔵は惜しいことにもはや再び起《た》てそうもない。景蔵はずっと沈黙をまもる人であるが、しかしあって見ると、相変わらずの景蔵であった。
険しい前途の思いは半蔵の胸に満ちて来た。彼は宮村まで供をするという兼吉を見て、ともかくも馬で行かれるところまで行き、それから先は牛の背に荷物をつけ替えようと語り合った。というのは、岩石のそそり立つ山坂を平地と同じように踏めるのは、牛のような短く勁《つよ》い脚《あし》をもったものに限ると聞くからであった。雪をついて飛騨の山の方へ落ちて行く前に、半蔵は中津川旧本陣にあたる景蔵の家の部屋を借り、馬籠の伏見屋あてに次ぎのような意味の手紙を残した。
「小竹伊之助君――しばらくのお別れにこれを書く。自分はこの飛騨行きを天の命とも考えて、高地の方に住む人々に、満足するような道を伝えたいため、馬籠をあとにして中津川まで来た。飛騨の人々が首を長くして自分の往《い》くのを待ちわびているような気がしてならない。二年、三年の後、自分はむなしく帰るかもしれない。あるいは骨となって帰るかもしれないが、ただただ天の命を果たしうればそれでいいと思う。東京の旅以来、格別お世話になったことは、心から感謝する。ただお粂のことは、今後も何卒《なにとぞ》お力添えあるようお願いする。いよいよ娘の縁づいて行くまでに話が進んだら、そのおりは自分も一度帰村する心組みであるが、これが自分の残して行く唯一のお願いである。自分は今、すこぶる元気でいる。心も平素よりおちついているような気がする。君も御無事に。」
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第十三章
一
四年あまり過ぎた。東京から東山道経由で木曾を西へ下って来て、馬籠《まごめ》の旅籠屋《はたごや》三浦屋の前で馬を停《と》めた英国人がある。夫人同伴で、食料から簡単な寝具食器の類《たぐい》まで携えて来ている。一人《ひとり》の通弁と、そこへ来て大きなトランクの荷をおろす供の料理人をも連れている。
この英国人は明治六年に渡来したグレゴリイ・ホルサムというもので、鉄道建築師として日本政府に雇われ、前の建築師長エングランドのあとを承《う》けて当時新橋横浜間の鉄道を主管する人である。明治の七年から十年あたりへかけてはこの国も多事で、佐賀の変に、征台の役に、西南戦争に、政府の支出もおびただしく、鉄道建築のごときはなかなか最初の意気込みどおりに進行しなかった。東京と京都の間をつなぐ幹線の計画すら、東海道を採るべきか、または東山道をえらぶべきかについても、政府の方針はまだ定まらなかった時である。種々《さまざま》な事情に余儀なくされて、各地の測量も休止したままになっているところすらある。当時の鉄道と言えば、支線として早く完成せられた東京横浜間を除いては、神戸《こうべ》京都間、それに前年ようやく起工の緒についた京都|大津《おおつ》間を数えるに過ぎなかった。ホルサムはこの閑散な時を利用し、しばらくの休暇を請い、横浜方面の鉄道管理を分担する副役に自分の代理を頼んで置いて、西の神戸京都間を主管する同国人の建築師長を訪《たず》ねるために、内地を旅する機会をとらえたのであった。
木曾路《きそじ》は明治十二年の初夏を迎えたころで、ホルサムのような内地の旅に慣れないものにとっても快い季節であった。ただこの旧《ふる》い街道筋を通過した西洋人もこれまでごくまれであったために、異国の風俗はとかく山家の人たちの目をひきやすくて、その点にかけては旅の煩《わずら》いとなることも多かった。これほど万国交際の時勢になっても、木曾あたりにはまだ婦人同伴の西洋人というものを初めて見るという人もある。それ異人の夫婦が来たと言って、ぞろぞろついて来る村の子供らはホルサムが行く先にあった。この彼が馬籠の旅籠屋の前で馬からおりて、ここは木曾路の西のはずれに当たると聞き、信濃と美濃の国境にも近いと聞き、眺《なが》めをほしいままにするために双眼鏡なぞを取り出して、恵那山《えなさん》の裾野《すその》の方にひらけた高原を望もうとした時は、顔をのぞきに来るもの、うわさし合うもの、異国の風俗をめずらしがるもの、周囲は目を円《まる》くしたおとなや子供でとりまかれてしまった。あまりのうるささに、彼は街道風な出格子《でごうし》の二階の見える旅籠屋の入り口をさして逃げ込んだくらいだ。
ホルサムが思い立って来た内地の旅は、ただの観光のためばかりではなかった。彼が日本に渡来した時は、すでに先着の同国人ヴィカアス・ボイルがあって、建築師首長として日本政府の依頼をうけ、この国鉄道の基礎計画を立てたことを知った。そのボイルが二回にもわたって東山道を踏査したのは、明治も七年五月と八年九月との早いころであった。ホルサムが今度の思い立ちはその先着の英国人が測量した跡を視察して、他日の参考にそなえたいためであった。さてこそ、三留野《みどの》泊まり、妻籠《つまご》昼食、それからこの馬籠泊まりのゆっくりした旅となったのである。
もともとこの国の鉄道敷設を勧誘したのは極東をめがけて来たヨーロッパ人仲間で、彼らがそこに目をつけたのも早く開国以前に当たる。江戸横浜間の鉄道建築を請願し来たるもの、鉄道敷設の免許権を得ようとするもの、測量方や建築方の採用を求めたり材料器具の売り込みに応じようとしたりするもの、いったん幕府時代に免許した敷設の権利を新政府において取り消すとは何事ぞと抗議し来たるもの、これらの外国人の続出はいかに彼ら自身が互いに激しい競争者であったかを語っている。そのうちに英国公使パアクスのような人があって、明治二年の東北および九州地方の飢饉《ききん》の例を引き、これを救うためにも鉄道敷設の急務であることをのべたところから、政府もその勧告に力を得て鉄道起業の議を決したのであった。たまたまわが政府のため鉄道に要する資金を提供しようという英国の有力者なぞがそこへあらわれて来て、いよいよこの機運を押し進めた。英国の鉄道建築師らが相前後してこの国に渡来するようになったのも不思議ではない。
当時、この国では初めて二隻の新艦を製し、清輝《せいき》、筑波《つくば》と名づけ、明治十二年の春にその処女航海を試みて大変な評判を取ったころである。なにしろ、大洋の航海術を伝習してからまだ二十年も出ないのに、自国人の手をもって船を造り、自国の航海者をもってこれを運用し、日本人のいまだかつて知らなかった地方を訪れ、これまで日本人を見たこともない者の目にこれを示し得たと言って、この国のものはいずれも大いに意を強くしたほどの時である。海の方面すらこのとおりだ。まだ創業の際にある鉄道の計画なぞは一切の技術をヨーロッパから習得しなければならなかった。幸いこの国に傭聘《ようへい》せられて来た最初の鉄道技術者にはエドモンド・モレルのような英国人があって、この人は組織の才をもつばかりでなく、言うことも時務に適し、日本は将来ヨーロッパ人の手を仮りないで事を執る準備がなければならない、それには教導局を置き俊秀な少年を養い百般の建築製造に要する技術者を造るに努めねばならないと言うような、遠い先のことまでも考える意見の持ち主であったという。
その後に来たのがボイルだ。この建築師首長はまたモレルの仕事を幾倍にかひろげた。そして日本国内部を通過すべき鉄道線路を計画するのは経国の主眼であって、おもしろい一大事業には相違ないが、また容易でないと言って、その見地から国内に有利な鉄道を敷こうとするについては必ずまずその基本線の道筋を定むべきである、その後の支線は皆これを基として連合せしめることの肝要なのは万国一般の実況で、日本においてもそのとおりであるとの上申書を政府に差し出した。それには鉄道幹線は東山道を適当とするの意見を立てたのも、またこのボイルである。その理由とするところは、東海道は全国最良の地であって、海浜に接近し、水運の便がある、これに反して東山道は道路も嶮悪《けんあく》に、運輸も不便であるから、ここに鉄道を敷設するなら産物運送と山国開拓の一端となるばかりでなく、東西両京および南北両海の交通を容易ならしめるであろうということであった。ボイルが測量隊を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府に報告し、東山道線および尾張線《おわりせん》の径路、建築方法、建築用材および人夫、運輸、地質検査、運賃計算等を明細にあげ示したのも、この趣意にもとづく。
今度のホルサムが内地の旅は、大体においてこの先着の英国人が測量標|杭《ぐい》を残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイルと算してある。それには松本から、洗馬《せば》、奈良井《ならい》を経て、鳥居峠の南方に隧道《トンネル》を穿《うが》つの方針で、藪原《やぶはら》の裏側にあたる山麓《さんろく》のところで鉄道線は隧道より現われることになる。それから追い追いと木曾川の畔《ほとり》に近づき、藪原と宮《みや》の越《こし》駅の間でその岸に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、および三留野《みどの》駅を通り、また田立村《ただちむら》を過ぎて界《さかい》の川で美濃の国の方にはいる方針である。
木曾路にはいって見たホルサムはいたるところの谷の美しさに驚き、また、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。ボイルの書き残したものによると、奈良井と藪原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界するものだと言ってある。またこの近傍において地質の急に変革したところもある、すなわちその北方|犀川《さいがわ》筋の地方はおもに破砕した翠増《すいぞう》岩石から成り立っていて、そしてその南方木曾川の谷は数マイルの間おもに大口火性石の谷側に連なるのを見るし、また、河底は一面に大きな塊《かたまり》の丸石でおおわれていると言ってある。木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山《おんたけさん》から流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にあ
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