から聞き得たことをくわしい書付にして、それを平兵衛に託してよこしくれたからであった。その書付によると、水無神社は高山にあるのではなくて、高山から一里半ほどへだてた位置にある。水無川は神社の前を流れる川である。神通川《じんずうがわ》の上流である。神社を中心に発達したところを宮村と言って、四方から集まって来る飛騨の参詣者《さんけいしゃ》は常に絶えないという。大祭、九月二十五日。ことにめずらしいのは十二月三十一日の年越え詣《もう》でで、盛装した男女の群れが神前に新しい春を迎えようとする古い風俗はちょっと他の地方に見られないものであるとか。美濃方面から冬期にこの神社の位置に達するためには、藁沓《わらぐつ》を用意し、その上に「かんじき」をあてて、難場中の難場と聞こえた国境の加子母峠《かしもとうげ》を越えねばならない。それでも旅人の姿が全く絶えるほどの日はなく、雪もさほど深くはない。中津川より下呂《げろ》まで十二里である。その間の道が困難で、峠にかかれば馬も通わないし、牛の背によるのほかはないが、下呂まで行けばよい温泉がわく。旅するものはそこにからだを温《あたた》めることができる。下呂から先は歩行も困難でなく、萩原《はぎわら》、小坂《おさか》を経て、宮峠にかかると、その山麓《さんろく》に水無神社を望むこともできる。なお、高山地方は本居宣長の高弟として聞こえた田中|大秀《おおひで》のごとき早く目のさめた国学者を出したところだから、半蔵が任地に赴《おもむ》いたら、その道の話相手や歌の友だちなぞを見つけることもあろうと書き添えてある。
 出発の前日には、平兵衛が荷ごしらえなどするそばで、半蔵は多吉と共に互いに記念の短冊《たんざく》を書きかわした。多吉はそれを好める道の発句《ほっく》で書き、半蔵は和歌で書いた。左衛門町の夫婦は別れを惜しんで、餞別《せんべつ》のしるしにと半蔵の前にさし出したのは、いずれも旅の荷物にならないような、しかも心をこめたものばかりであった。多吉からは黄色な紙に包んである唐墨《からすみ》。お隅からは半蔵の妻へと言って、木曾の山家では手に入りそうもない名物さくら香《か》の油。それに、元結《もとゆい》。
「まったく、不思議な御縁です。」
 翌朝早く半蔵はその多吉夫婦の声を聞いて、別れを告げた。頼んで置いた馬も来た。以前彼が江戸を去る時と同じように、引きまとめた旅の荷物は琉球《りゅうきゅう》の菰包《こもづつみ》にして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町の門《かど》を離れた。
「どれ、そこまでわたしも御一緒に。」
 という多吉はあわただしく履物《はきもの》を突ッかけながら、左衛門橋の上まで半蔵らを追って来た。上京以来、半蔵が教部省への勤め通いに、町への用達しに、よく往復したその橋のほとりも、左衛門町の二階と引き離しては彼には考えられないようなものであった。その朝の河岸《かし》に近く舫《もや》ってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣《いしがき》の上の倉庫の裏手に乾《ほ》してある小さな鳥かごまでが妙に彼の目に映った。


 王政復古以来、すでに足掛け八年にもなる。下から見上げる諸般の制度は追い追いとそなわりつつあったようであるが、一度大きく深い地滑《じすべ》りが社会の底に起こって見ると、何度も何度も余りの震動が繰り返され、その影響は各自の生活に浸って来ていた。こんな際に、西洋文物の輸入を機会として、種々雑多の外国人はその本国からも東洋植民地からも入り込みつつあった。それらのヨーロッパ人の中には先着の客の意見を受け継ぎ、日本人をして西洋文明を採用せしめるの途《みち》は、強力によって圧倒するか、さなくば説諭し勧奨するか、そのいずれかを出《い》でないとの尊大な考えを抱《いだ》いて来るものがある。衰余の国民が文明国の干渉によって勃興《ぼっこう》した例は少ないが、今は商業も著しく発達し、利益と人道とが手を取って行く世の中となって来たから、よろしく日本を良導して東洋諸衰残国の師たる位置に達せしめるがいいというような、比較的同情と親愛とをもって進んで来るものもある。ヨーロッパの文明はひとり日本の政治制度に限らず、国民性それ自身をも滅亡せしめる危険なくして、はたして日本の国内にひろめうるか、どうか。この問いに答えなければならなかったものが日本人のすべてであった。当時はすでに民選議院建白の声を聞き、一方には旧士族回復の主張も流れていた。目に見えない瓦解《がかい》はまだ続いて、失業した士族から、店の戸をおろした町人までが互いに必死の叫びを揚げていた。だれもが何かに取りすがらずにはいられなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。

       五

「お師匠さま。」
 その呼び声は、雪道を凍らせてすべる子供らの間に起こっている。坂になった町の片側をたくみにすべって行くものがある。ころんで起き上がるものがある。子供らしい笑い声も起こっている。
 山家《やまが》育ちの子供らは手に手に鳶口《とびぐち》を携え、その手のかじかむのも忘れ、降り積もった雪道の遊戯に余念がない。いずれも元の敬義学校の生徒だ。名も神坂村《みさかむら》小学校と改められた新校舎の方へ通《かよ》っている馬籠《まごめ》の子供らだ。二月上旬の末に半蔵は平兵衛と連れだちながら郷里に着いて、伏見屋の前あたりまで帰って行くと、自分を呼ぶその教え子らの声を聞いた。
「お父《とっ》さん。」
 と呼びながら、氷すべりの仲間から離れて半蔵の方へ走って来るのは、腕白《わんぱく》ざかりな年ごろになった三男の森夫であった。そこには四男の和助までが、近所の年長《としうえ》の子供らの仲間にはいりながら、ほっペたを紅《あか》くし、軽袗《かるさん》の裾《すそ》のぬれるのも忘れて、雪の中を歩き回るほど大きくなっていた。
 新しい春とは言っても山里はまだ冬ごもりのまっ最中である。半蔵の留守宅には、継母のおまんをはじめ、妻のお民、娘お粂《くめ》、長男宗太から下男佐吉らまで、いずれも雪の間に石のあらわれた板屋根の下で主人の帰りを待ち受けていた。東京を立ってからの半蔵はすでに八十余里の道を踏んで来て、凍えもし、くたぶれもしていたが、そう長く自分の家にとどまることもできない人であった。三日ばかりの後にはまた馬籠を立って、任地の方へ向かわねばならなかった。あまりに飛騨行きの遅れることは彼の事情が許さなかったからで。馬につけて来た荷もおろされ、集まって来る子供の前に旅の土産《みやげ》も取り出され、長い留守中の話や東京の方のうわさがそこへ始まると、早くも予定の日取りを聞きつけた村の衆が無事で帰って来た半蔵を見にあとからあとからと詰めかけて来る。松本以来の訓導小倉啓助は神坂村小学校の報告を持って、馬籠町内の旧組頭|笹屋庄助《ささやしょうすけ》はその後の山林事件の成り行きと村方養蚕奨励の話なぞを持って、荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》松下千里は村社|諏訪社《すわしゃ》の祭礼復興の話を持ってというふうに。
 わずか三日ばかりの半蔵が帰宅は家のものにとっても実にあわただしかった。炉の火を大きな十能《じゅうのう》に取って寛《くつろ》ぎの間《ま》へ運び、山家らしい炬燵《こたつ》に夫のからだをあたためさせながら、木曾福島の植松家からあった娘お粂の縁談を語り出すのはお民だ。そこへ手のついた古風な煙草盆《たばこぼん》をさげて来て、ふるさとにあるものがこのままの留守居を続けることはいかにも心もとないと言い出すのはおまんだ。宗太もまだ十八歳の若者ではあるが、村では評判の親孝行者であり、半蔵の従兄《いとこ》に当たる栄吉にその後見をさせ、旧本陣時代からの番頭格清助にも手伝わせたら、青山の家がやれないことはあるまい、半蔵の水無神社宮司として赴任するのを機会にこの際よろしく家督を跡目相続の宗太に譲り、それから自分の思うところをなせ――そう言うおまんは髪こそ白さを加えたが、そこへ手をついて頭を上げ得ないでいる半蔵を前に置いて、この英断に出た。たとい城を枕《まくら》に討死《うちじ》にするような日が来ても旧本陣の格はくずしたくないと言いたげな継母の口から、日ごろの経済のうとさを一々指摘された時は、まったく半蔵も返す言葉がなかった。
 今度の帰国の日は、半蔵が自分の生涯《しょうがい》の中でもおそらく忘れることのできなかろうと思った日である。彼が四十四歳で隠居の身となることを決心したのもその間であった。これは先代の吉左衛門が六十四歳まで馬籠の宿役人を勤め、それから家督を譲って、隠居したのに比べると二十年早い。また、先々代半六が六十六歳のおりの引退に比べると二十二年も早い。
 このさみしさ、あわただしさの中で、半蔵はすこしの暇でも見つけるごとに隣家の伏見屋へ走って行った。無事な伊之助の顔を見て、いろいろ世話になった礼を述べ、東京浅草左衛門町までの旅先で届けてもらった金子のことも言い、継母にはまたしかられるかもしれないが亡《な》き吉左衛門が彼にのこして行った本陣林のうちを割《さ》いてその返済方にあてたいと頼んだ。彼の長男があの年齢《とし》のうら若さで、はたしてやり切れるかどうかもおぼつかなくはあるが、お民も付いているし、それに自分はもはや古い青山の家に用のないような人間であるから、継母の言葉に従ったとも告げた。そして彼が伊之助にその話をして家に引き返して来て見ると、長いこと独身で働いていた下男の佐吉があかぎれだらけの大きな手をもみもみ彼の前へ来た。この男も、今度いよいよ長い暇《いとま》を告げ、隣村山口に帰り、嬶《かか》をもらって竈《かまど》を持ちたいと言う。
「旦那《だんな》、お前さまに折り入ってお願いがある。」
「なんだい、佐吉。言って見ろ。」
「お前さまも知ってるとおり、おれには苗字《みょうじ》がない。」
「おゝ、佐吉にはまだ苗字がなかったか。」
「見さっせれ。皆と同じように、おれもその苗字がほしいわなし。お前さまのような人にそれをつけてもらえたら、おれもこうして長く御奉公したかいがあるで。」
 この男の言うようにすると、自分の姓はどんなものでもいい。半蔵の方で思ったようにつけてくれれば、それでいい。多くの無筆なものと同じように、この男の親も手の荒れる畠《はたけ》仕事に追われ通して、何一つ書いたものがあとに残っていない。小使い帳一冊残っていない。家に伝わるはっきりした系図というようなものもない。黙って働いて、黙って死んで行った仲間だ。ついては、格別やかましい姓を名乗りたいではないが、自分の代から始めることであるから、何か自分に縁故のあるものをほしい。日ごろ本陣の北に当たる松林で働いて来た縁故から、北林の苗字はどうあろうかと言い出したので、半蔵は求めらるるままに北林佐吉としてやった。山口へ帰ったら早速《さっそく》その旨《むね》を村役場へ届けいでよとも勧めた。この男には半蔵は家に伝わる田地を分け、下男奉公のかたわら耕させ、それを給金の代わりに当ててあった。女ぎらいかと言われたほどの変わり者で、夜遊びなぞには目もくれず、昼は木小屋、夜は母屋《もや》の囲炉裏ばたをおのれの働く場所として、主人らの食膳《しょくぜん》に上る野菜という野菜は皆この男の手造りにして来たものであった。
 青山氏系図、木曾谷中御免荷物材木通用帳、御年貢《おねんぐ》皆済目録、馬籠宿駅印鑑、田畑家屋敷|反別帳《たんべつちょう》、その他、青山の家に伝わる古い書類から、遠い先祖の記念として残った二本の鎗《やり》、相州三浦にある山上家から贈られた家宝の軸――一切それらのものの引き渡しの時も迫った。ほとほと半蔵には席の暖まるいとまもない。彼は店座敷の障子のわきにある自分の旧《ふる》い桐《きり》の机の前にすわって見る間もなく、またその座を立って、宗太へ譲るべき帳面の類《たぐい》なぞ取りまとめにかかった。何げなくお粂はその部屋《へや》をのぞきに来て、本陣、問屋、庄屋の三役がしきりに廃された当時のことを思い出し顔であった。家の女衆の中で最も深く瓦解《がか
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