夢のようにながめながら、照りのつよい日のあたった南向きの障子のわきにすわりつづけた。まだ春も浅く心も柔らかな少女たちが、今にこの日本の国も英語でなければ通じなくなる時が来ると信じて、洋書と洋傘《ようがさ》とを携え、いそいそと語学の教師のもとへ通うものもあるというような、そんな人のうわさを左衛門町の家のものから聞くだけでも、彼は胸がいっぱいになった。


 終日読書。
 青年時代から半蔵が見まもって来たまぼろしは、また彼の胸に浮かぶ。そのまぼろしの正体を彼は容易に突きとめることができなかった。彼の心に描く「黒船」とは、およそ三つのものを載せて来る。耶蘇教《ヤソきょう》はその一つ、格物究理の洋学はその一つ、交易による世界一統もまたその一つである。彼なぞの考えるところによると、西洋の学問するものも一様ではない、すくなくも開国以前と以後とでは、洋学者の態度にもかなりな相違がある。今さら、「東洋は道徳、西洋は芸術(技術の意)」と言ったあの佐久間象山《さくましょうざん》を引き合いに出すまでもなく、開港以前の洋学者はいずれもこの国に高い運命の潜むことを信じて行ったようである。前の高橋作左衛門、土生玄磧《はぶげんせき》、後の渡辺崋山《わたなべかざん》、高野長英、皆そういう人たちである。農園と経済学との知識をもつ洋学者で、同時に本居平田の学説を深く体得した秋田の佐藤信淵《さとうのぶひろ》のごとき人すらある。六十歳の声を聞いて家督を弟に譲り、隠居して、それから洋学にこころざしたような人は決してめずらしくない。その学問は藩の公《おおやけ》に許すところであらねばならぬ。洋学者としての重い責めをも果たさねばならぬ。彼らが境涯《きょうがい》の困難であればあるだけ、そのこころざしも堅く、学問も確かに、著述も残し、天文、地理、歴史、語学、数学、医学、農学、化学、または兵学のいずれにも後の時代のためにしたくをなし得たわけである。そこへ行くと開国以後の洋学者というものはその境涯からして変わって来た。今は洋学することも割合に困難でなくなった。わざわざ長崎まで遠く学びに行くものは、かえって名古屋あたりの方にもっとよい英語教師のあることを知るという世の中になって来た。彼の目の前にひらけているのは、実に浅く普及して来た洋学の洪水《こうずい》だ。
 もとよりその中には、開国以前からの洋学者ののこしたこころざしを承《う》け継ぐ少数の人たちもないではない。しかし、ここに本も読めば筆も立つ旧幕の人の一群というものがある。それらの人たちが西洋を求める態度はすこし違う。彼らは早く西洋の事情に通じる境涯にも置かれてあって、幕府の洋書取調所(蕃書《ばんしょ》取調所の後身)に関係のあったものもあり、横浜開港場の空気に触れる機会の多かったものもある。それらの人たちはまた、閲歴も同じくはないし、旧幕時代の役の位もちがい、禄《ろく》も多かったものと寡《すく》なかったものとあるが、大きな瓦解《がかい》の悲惨に直面したことは似ていた。江戸をなつかしむ心も似ていた。幕末の遺臣として知られた山口|泉処《せんしょ》、向山黄村《むこうやまこうそん》、あの人たちもどうなったろうと思われる中で、瓦解以前に徳川政府の使命を帯びフランスに赴《おもむ》いた喜多村瑞見なぞはその広い見聞の知識を携え帰って来て、本所北二葉町の旧廬《きゅうろ》から身を起こし、民間に有力なある新聞の創立者として言論と報道との舞台に上って来た。もっとも、瑞見はその出発が幕府|奥詰《おくづめ》の医師であり、本草《ほんぞう》学者であって、かならずしも西洋をのみ鼓吹《こすい》する人ではなかったが、後進で筆も立つ人たちが皆瑞見のような立場にあるのではない。中には、自国に失望するあまりに、その心を見ぬヨーロッパの思慕へとかえるものがある。戯文に隠れて、一般の異国趣味をあおぎ立てるものもある。「なるほど、世の中は変わりもしよう。しかし、よりよい世の中は――決して。」――とは、不平不満のやりどころのないようなそれらの人たちより陰に陽に聞こえて来る強い非難の声だ。半蔵なぞにして見ると、今の時はちょうど遠い昔に漢土の文物を受けいれはじめたその同じ大切な時にあたる。中世の殻《から》もまだ脱ぎ切らないうちに、かつてこの国のものが漢土に傾けたその同じ心で、今また西洋にのみあこがれるとしたら。かつては漢意をもってし、今は洋意をもってする。模倣の点にかけては同じことだ。どうしてもこれは一方に西洋を受けいれながら、一方には西洋と戦わねばならぬ。その意味から言っても、平田篤胤没後の門人としてはこうした世の風潮からも自分らの内にあるものを護《まも》らねばならなかった。すくなくも、荷田大人《かだうし》以来国学諸先輩の過去に開いた道が外来の学問に圧倒せられて、無用なものとなって行こうとは、彼には考えられもしなかった。

       四

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  裁断申し渡し番付の写し
[#地から8字上げ]信濃国《しなののくに》筑摩《ちくま》郡|神坂《みさか》村平民
[#地から8字上げ]当時|水無《みなし》神社宮司兼中講義
[#地から3字上げ]青山半蔵
その方儀、憂国の過慮より、自作の和歌一首録し置きたる扇面を行幸の途上において叡覧《えいらん》に備わらんことを欲し、みだりに供奉《ぐぶ》の乗車と誤認し、投進せしに、御《ぎょ》の車駕《しゃが》に触る。右は衝突|儀仗《ぎじょう》の条をもって論じ、情を酌量《しゃくりょう》して五等を減じ、懲役五十日のところ、過誤につき贖罪金《しょくざいきん》三円七十五銭申し付くる。
  明治八年一月十三日
[#地から4字上げ]東京裁判所
[#ここで字下げ終わり]
 ここに半蔵の本籍地を神坂村とあるは、彼の郷里馬籠と隣村湯舟沢とを合わせて一か村とした新しい名称をさす。言いかえれば、筑摩県管下、筑摩郡、神坂村、字馬籠である。最も古い交通路として知られた木曾の御坂《みさか》は今では恵那山につづく深い山間《やまあい》の方に埋《うず》もれているが、それに因《ちな》んでこの神坂村の名がある。郡県政治のあらわれの一つとして、宿村の併合が彼の郷里にも行なわれていたのである。
 待ちに待った日はようやく半蔵のところへ来た。この申し渡しの書付にあるように、いよいよ裁判も決定した。夕方から、彼は多吉夫婦と共に左衛門町の下座敷に集まった。思わず出るため息と共に、自由な身となったことを語り合おうとするためであった。そこへ多吉を訪《たず》ねて門口からはいって来た客がある。多吉には川越《かわごえ》時代からの旧《ふる》いなじみにあたる青物問屋の大将だ。多吉が俳諧《はいかい》友だちだ。こちらは一段落ついた半蔵の事件で、宿のものまで一同重荷をおろしたような心持ちでいるところであったから、偶然にもその客がはいって来た時、玄関まで出迎える亭主を見るといきなり向こうから声をかけたが、まるでその声がわざわざ見舞いにでも来てくれたように多吉の耳には響いた。
「まずまあ、多吉さん。」
 これは半蔵にも、時にとってのよい見舞いの言葉であった。ところが、この「まずまあ」は、実は客の口癖で、お隅は日ごろの心やすだてからそれをその人のあだ名にして、下女までそう呼び慣れていたほどだから、ちょうど客がその声をかけてはいって来たのは、自身であだ名を呼びながら来たようなものであった。お隅はそれを聞くと座にもいたたまれない。下女なぞは裏口まで逃げ出して隠れた。
 ともあれ、半蔵の引き起こした献扇事件は、暗い入檻《にゅうかん》中の五日と、五十日近い謹慎の日とを送ったあとで、こんなふうにその結末を告げた。五十日の懲役には行かずに済んだものの、贖罪《しょくざい》の金は科せられた。どうして、半蔵としては笑い事どころではない。押し寄せて来る時代の大波を突き切ろうとして、かえって彼は身に深い打撃を受けた。前途には、幾度か躊躇《ちゅうちょ》した飛騨《ひだ》の山への一筋の道と、神の住居《すまい》とが見えているのみであった。
 夜が来た。左衛門町の二階の暗い行燈《あんどん》のかげで、めずらしくも先輩|暮田正香《くれたまさか》がこの半蔵の夢に入った。多くの篤胤没後の門人中で彼にはことに親しみの深く忘れがたいあの正香も、賀茂《かも》の少宮司から熱田《あつた》の少宮司に転じ、今は熱田の大宮司として働いている人である。その夜の旅寝の夢の中に、彼は正式の装束《しょうぞく》を着けた正香が来て、手にする白木《しらき》の笏《しゃく》で自分を打つと見て、涙をそそぎ、すすり泣いて目をさました。


 正月の末まで半蔵は東京に滞在して、飛騨行きのしたくをととのえた。斎《いつき》の道は遠く寂しく険しくとも、それの踏めるということに彼は心を励まされて一日も早く東京を立ち、木曾街道経由の順路としてもいったんは国に帰り、それから美濃《みの》の中津川を経て飛騨へ向かいたいと願っていたが、種々《さまざま》な事情のためにこの出発はおくれた。みずから引き起こした献扇事件には彼もひどく恐縮して、その責めを負おうとする心から、教部省内の当局者あてに奏進始末を届け出て、進退を伺うということも起こって来た。彼の任地なる飛騨高山地方は当時筑摩県の管下にあったが、水無神社は県社ともちがい、国幣小社の社格のある関係からも、一切は本省の指令を待たねばならなかった。一方にはまた、かく東京滞在の日も長引き、費用もかさむばかりで、金子《きんす》調達のことを郷里の伏見屋伊之助あてに依頼してあったから、その返事を待たねばならないということも起こって来た。幸い本省からはその儀に及ばないとの沙汰《さた》があり、郷里の方からは伊之助のさしずで、峠村の平兵衛に金子を持たせ、東京まで半蔵を迎えによこすとの通知もあった。今は彼も心ぜわしい。再び東京を見うるの日は、どんなにこの都も変わっているだろう。そんなことを思いうかべながら、あちこちの暇乞《いとまご》いにも出歩いた。旧|組頭《くみがしら》廃止後も峠のお頭《かしら》で通る平兵衛は二月にはいって、寒い乾《かわ》き切った日の夕方に左衛門町の宿へ着いた。
 半蔵と平兵衛とは旧宿場時代以来、ほとんど主従にもひとしい関係にあった。どんなに時と場所とを変えても、この男が半蔵を「本陣の旦那《だんな》」と考えることには変わりはなかった。慶応四年の五月から六月へかけて、伊勢路《いせじ》より京都への長道中を半蔵と共にしたその同じ思い出につながれているのも、この男である。平兵衛は伊之助から預かって来た金子ばかりでなく、半蔵が留守宅からの言伝《ことづて》、その後の山林事件の成り行き、半蔵の推薦にかかる訓導小倉啓助の評判など、いろいろな村の話を彼のところへ持って来た。東京から伝わる半蔵のうわさ――ことに例の神田橋外での出来事から入檻を申し付けられたとのうわさの村に伝わった時は、意外な思いに打たれないものはなかった。中にも半蔵のために最も心を痛めたものは伏見屋の主人であったという話をも持って来た。
 平兵衛は言った。
「そりゃ、お前さま、何もわけを知らないものが聞いたら、たまげるわなし。」
「……」
「ほんとに、人のうわさにろくなことはあらすか。半蔵さまが気が違ったという評判よなし。お民さまなぞはそれを聞いた時は泣き出さっせる。皆のものが言うには、本陣の旦那はあんまり学問に凝らっせるで、まんざら世間の評判もうそではなからず、なんて――村じゃ、そのうわささ。そんなばかなことがあるもんかッて、お前さまの肩を持つものは、伏見屋の旦那ぐらいのものだった。まあ、おれも、今度出て来て見て、これで安心した。」
「……」


 飛騨を知らない半蔵が音に聞く嶮岨《けんそ》な加子母峠《かしもとうげ》の雪を想像し、美濃と飛騨との国境《くにざかい》の方にある深い山間の寂寞《せきばく》を想像して、冬期には行く人もないかと思ったほど途中の激寒を恐れたことは、平兵衛の上京でやや薄らぎもした。というのは、飛騨高山地方から美濃の中津川まで用|達《た》しに出て来た人があったとかで、伊之助は中津川でその人
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