町の方へ越して来ては。」
それを勧めるための恭順が来訪であったのだ。この医者はなおも言葉をついで、
「そうすれば、わたしも話し相手ができていい。まあ、君|一人《ひとり》ぐらい居候《いそうろう》に置いたって、食わせるに困るようなことはしませんぜ。部屋《へや》も貸しますぜ。」
恭順は真実を顔にあらわして言った。その言葉のはしにまじる冗談もなかなかに温《あたた》かい。同門のよしみとは言え、よっぽど半蔵もこの人に感謝してよかった。しかし、謹慎中の身として寄留先を変えることもどうかと思うと言って、彼は恭順のこころざしだけを受け、やはりこのままの仮寓《かぐう》を続けることにしたいと断わった。むなしい旅食は彼とても心苦しかったが、この滞在が長引くようならばと郷里の伏見屋伊之助のもとへ頼んでやったこともあり、それに今になって左衛門町の宿を去るには忍びなかった。
十二月中旬まで半蔵は裁判所からの沙汰《さた》を待った。そのころにでもなったら裁断も言い渡されるだろうと心待ちに待っていたが、裁判所も繁務のためか、十二月下旬が来るころになってもまだ何の沙汰もない。
東京の町々はすでに初雪を見る。もっとも、浅々と白く降り積もった上へ、夜の雨でも来ると、それが一晩のうちに溶けて行く。木曾路《きそじ》あたりとは比較にもならないこの都会の雪空は、遠く山の方へと半蔵の心を誘う。彼も飛騨行きのおくれるのを案じている矢先で、それが延びれば延びるほど、あの険阻《けんそ》で聞こえた山間の高山路が深い降雪のために埋《うず》められるのを恐れた。
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独居《ひとりい》のねぶり覚ますと松が枝《え》にあまりて落つる雪の音かな
さよしぐれ今は外山《とやま》やこえつらむ軒端《のきば》に残る音もまばらに
山里は日にけに雪のつもるかな踏みわけて訪《と》ふ人もこなくに
しら雪のうづみ残せる煙こそ遠山里のしるしなりけれ
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これらの冬の歌は、半蔵が郷里の方に残して来た旧作である。彼は左衛門町の二階にいてこれらの旧作を思い出し、もはや雪道かと思われる木曾の方の旧《ふる》い街道を想像し、そこを往来する旅人を想像し、革《かわ》のむなび、麻の蝿《はえ》はらい、紋のついた腹掛けから、鬣《たてがみ》、尻尾《しっぽ》まで雪にぬれて行く荷馬の姿を想像した。彼はまた、わずかに栂《つが》の実なぞの紅《あか》い珠《たま》のように枝に残った郷里の家の庭を想像し、木小屋の裏につづく竹藪《たけやぶ》を想像し、その想像を毎年の雪に隠れひそむ恵那山《えなさん》連峰の谿谷《けいこく》にまで持って行って見た。
とうとう、半蔵は東京で年を越した。一年に一度の餅《もち》つき、やれ福茶だ、小梅だ、ちょろげだと、除夜からして町家は町家らしく、明けては屠蘇《とそ》を祝え、雑煮《ぞうに》を祝え、かち栗《ぐり》、ごまめ、数の子を祝えと言う多吉夫婦と共に、明治八年の新しい正月を迎えた。
暮れのうちに出したらしい郷里の家のものからの便《たよ》りがこの半蔵のもとに届いた。それは継母おまんと、娘お粂《くめ》とからで。娘の方の手紙は父の身を案じ暮らしていることから、留守宅一同の変わりのないこと、母お民から末の弟和助まで毎日のように父の帰国を待ちわびていることなぞが、まだ若々しい女文字で認《したた》めてある。継母から来た便りはそう生《なま》やさしいものでもない。それには半蔵の引き起こした今度の事件がいつのまにか国もとへも聞こえて来て、種々《さまざま》なうわさを生んでいるとある。その中にはお粂のようすも伝えてあって、その後はめっきり元気を回復し、例の疵口《きずぐち》も日に増し目立たないほどに癒《い》え、最近に木曾福島の植松家から懇望のある新しい縁談に耳を傾けるほどになったとある。継母の手紙は半蔵の酒癖のことにまで言い及んであって、近ごろは彼もことのほか大酒をするようになったと聞き伝えるが、朝夕継母の身として案じてやるとある。その手紙のつづきには、男の大厄《たいやく》と言わるる前後の年ごろに達した時は、とりわけその勘弁がなくては危《あぶ》ないとは、あの吉左衛門が生前の話にもよく出た。大事の吉左衛門を立てるなら、酒を飲むたびに亡《な》き父親のことを思い出して、かたくかたくつつしめとも言ってよこしてある。
「青山さん、まだ裁判所からはなんとも申してまいりませんか。」
新しい正月もよそに、謹慎中の日を送っている半蔵のところへ、お隅《すみ》は下座敷から茶を入れて来て勧めた。到来物の茶ではあるがと言って、多吉の好きな物を客にも分けに階下《した》から持って来るところなぞ、このかみさんも届いたものだ。
旅の空で、半蔵もこんな情けのある人を知った。彼の境涯《きょうがい》としては、とりわけ人の心の奥も知らるるというものであった。お隅は凜《りん》とした犯しがたいようなところのある人で、うっかりすると一切女房任せな多吉の方がかえって女房であり、むしろお隅はこの家の亭主である。
「お国から、お便《たよ》りがございましたか。」
「ええ、皆無事で暮らしてるようです。こちらへも御厄介《ごやっかい》になったろうッて、吾家《うち》のものからよろしくと言って来ました。」
「さぞ、奥さんも御心配なすって――」
「お隅さん、あなたの前ですが、国からの便りと言うといつでも娘が代筆です。あれも手はよく書きますからね。わたしの家内はまた、自分で手紙を書いたことがありませんよ。」
こんな話も旅らしい。お隅の調子がいかにもさっぱりとしているので、半蔵は男とでも対《むか》い合ったように、継母から来た手紙のことをそこへ言い出して、彼の酒をとがめてよこしたと言って見せる。彼が賢い継母を憚《はばか》って来たことは幼年時代からで、「お母《っか》さんほどこわいものはない」と思う心を人にも話したことがあるほどだが、成人して家督を継ぎ、旧宿場や街道の世話をするようになってからは、その継母にすら隠れて飲むことはやめられなかったと白状する。
「でも、青山さん。お酒ぐらい飲まなくて、やりきれるものですかね。」
お隅はお隅らしいことを言った。
松の内のことで、このかみさんも改まった顔つきではいるが、さすがに気のゆるみを見せながら、平素めったに半蔵にはしない自分の女友だちのうわさなぞをも語り聞かせる。お寅《とら》と言って清元《きよもと》お葉《よう》の高弟にあたり、たぐいまれな美音の持ち主で、柳橋《やなぎばし》辺の芸者衆に歌沢《うたざわ》を教えているという。放縦ではあるが、おもしろい女で、かみさんとは正反対な性格でいながら、しかも一番仲よしだともいう。その人の芸人|肌《はだ》と来たら、米櫃《こめびつ》に米がなくなっても、やわらか物は着通し、かりん胴の大切な三味線《しゃみせん》を質に入れて置いて、貸本屋の持って来る草双紙《くさぞうし》を読みながら畳の上に寝ころんでいるという底の抜け方とか。お隅は女の書く手紙というものをその女友だちのうわさに結びつけて、お寅もやはり手紙はむつかしいものと思い込んでいた女の一人であると半蔵に話した。何も、型のように、「一筆しめしあげ参らせ候《そろ》」から書きはじめなくとも、談話《はなし》をするように書けば、それで手紙になると知った時のお寅の驚きと喜びとはなかったとか。早速《さっそく》お寅は左衛門町へあてて書いてよこした。今だにそれはお隅の家のものの一つ話になっているという。その手紙、
「はい、お隅さん、今晩は。暑いねえ。その後、亭主あるやら、ないじゃやら――ですとさ。」
お隅はこんな話をも半蔵のところに置いて行った。
騒がしく、楽しい町の空の物音は注連《しめ》を引きわたした竹のそよぎにまじって、二階の障子に伝わって来ていた。その中には、多吉夫婦の娘お三輪《みわ》が下女を相手にしての追羽子《おいばね》の音も起こる。お三輪は半蔵が郷里に残して置いて来たお粂を思い出させる年ごろで、以前の本所相生町の小娘時代に比べると、今は裏千家《うらせんけ》として名高い茶の師匠|松雨庵《しょううあん》の内弟子《うちでし》に住み込んでいるという変わり方だ。平素は左衛門町に姿を見せない娘が両親のもとへ帰って来ているだけでも、家の内の空気は違う。多吉夫婦は三人の子の親たちで、お三輪の兄量一郎は横浜貿易商の店へ、弟利助は日本橋辺の穀問屋《こくどんや》へ、共に年期奉公の身であるが、いずれこの二人《ふたり》の若者も喜び勇んで藪入《やぶいり》の日を送りに帰って来るだろうとのうわさで持ち切る騒ぎだ。
町へ来るにぎやかな三河万歳《みかわまんざい》までが、めでたい正月の気分を置いて行く中で、半蔵は謹慎の意を表しながらひとり部屋にすわりつづけた。お三輪は結いたてのうつくしい島田で彼のところへも挨拶《あいさつ》に来て、紅白の紙に載せた野村の村雨《むらさめ》を置いて行った。
七草過ぎになっても裁判所からは何の沙汰もない。毎日のように半蔵はそれを待ち暮らした。亭主多吉は風雅の嗜《たしな》みのある人だけに、所蔵の書画なぞを取り出して来ては、彼にも見よと言って置いて行ってくれる。腰張りのしてある黄ばんだ部屋の壁も半蔵には慰みの一つであった。
ふと、半蔵は町を呼んで来る物売りの声を聞きつけた。新版物の唄《うた》を売りに、深山の小鳥のような鋭くさびた声を出して、左衛門町の通りを読み読み歩いて来る。びっくりするほどよくとおるその読売りの声は町の空気に響き渡る。半蔵は聞くともなしにそれを聞いて、新しいものと旧《ふる》いものとが入れまじるまッ最中を行ったようなその新作の唄の文句に心を誘われた。
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洋服すがたに
ズボンとほれて、
袖《そで》ないおかたで苦労する。
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激しい移り変わりの時を告げ顔なものは、ひとりこんな俗謡にのみかぎらない。過ぐる七年の月日はすべてのものを変えつつあった。燃えるような冒険心を抱《いだ》いて江戸の征服を夢み、遠く西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑連ですら、追い追いの粋《いき》な風に吹かれては、都の女の俘虜《とりこ》となるものも多かった。一方には当時|諷刺《ふうし》と諧謔《かいぎゃく》とで聞こえた仮名垣魯文《かながきろぶん》のような作者があって、すこぶるトボケた調子で、この世相をたくみな戯文に描き出して見せていた。多吉が半蔵にも読んで見よと言って、下座敷から持って来て貸してくれた『阿愚楽鍋《あぐらなべ》』、一名牛店雑談にはこんな一節もある。
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「方今の形勢では、洋学でなけりゃア、夜は明けねえヨ。」
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これは開化の魁《さきがけ》たる牛店を背景に、作者が作中人物の一人《ひとり》をして言わせた会話の中の文句である。どんな人物の口からこんな文句が出るかというに、にわか散切《ざんぎ》りの西洋ごしらえ、フランスじこみのマンテルにイギリスのチョッキを着け、しかもそれは柳原あたりの朝市で買い集めた洋服であり、時計はくさりばかりぶらさげて、外見をつくろおうとする男とある。おのれ一人が文明人という顔つきで、『世界|国尽《くにづくし》』などをちょっと口元ばかりのぞいて見た知識を振り回し、西洋のことならなんでも来いと言い触らすこまりものだともある。おもて華《はな》やかに、うらの貧しいこんな文明人はついそこいらの牛店にもすわり込んで、肉鍋と冷酒《ひやざけ》とを前に、気焔《きえん》をあげているという時だ。寄席《よせ》の高座で、芸人の口をついて出る流行唄《はやりうた》までが変わって、それがまた英語まじりでなければ納まらない世の中になって来た。「待つ夜の長き」では、もはや因循で旧弊な都々逸《どどいつ》の文句と言われる。どうしてもそれは「待つ夜のロング」と言わねばならない。「猫撫《ねこな》で声」というような文句ももはや眠たいとされるようになった。どうしてもそれは「キャット撫で声」と言わねば人を驚かさない。すべてこのたぐいだ。
半蔵は腕を組んでしまって、渦巻《うずま》く世相を
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