しまった。こうすればこうなるぞと考えてしたことではなく、また、考えてできるような行ないではもとよりない。ほとばしり出る自分がそこにあるのみだった。
二
身祝いにと多吉夫婦が勧めてくれた酒に入檻中の疲労を引き出されて、翌朝半蔵はおそくまで二階に休んでいた。上京以来早朝の水垢離《みずごり》を執ることを怠らなかった彼も、その朝ばかりはぐっすり寝てしまって、宿の亭主が茅場町《かやばちょう》の店へ勤めに通う時の来たことも知らなかった。ゆうべの雨は揚がって、町のほこりも洗われ、向かい側にある家々の戸袋もかわきかけるころに、下女が二階の雨戸を繰ろうとして階下《した》から登って来て見る時になっても、まだ彼は大いびきだ。この彼がようやく寝床からはい出して、五日ばかりも留守にした部屋《へや》のなかを見回した時は、もはや日が畳の上までさして来ていた。
「お前の内部《なか》には、いったい、何事が起こったのか。」
ある人はそう言って半蔵に尋ねるかもしれない。入檻に、裁判所送りに、宿預けに、その日からの謹慎に――これらはみな彼の献扇から生じて来た思いがけない光景である。あの行幸の当日、彼のささげた扇子があやまって御輦《ぎょれん》に触れたとは、なんとしても恐縮するほかはない。慕い奉る帝の御道筋をさまたげたことに対しても、彼は甘んじてその罰を受けねばならない。
「まったく、粗忽《そこつ》な挙動ではあった。」
彼の言いうることは、それだけだ。その時になって見ると、彼は郷里の家の方に留守居する自分の娘お粂《くめ》を笑えなかった。過ぐる年の九月五日の夜、馬籠本陣の土蔵二階であの娘の自害を企てたことは、いまだに村のものの謎《なぞ》として残っている。父としての彼が今度のような事件を引き起こして見ると、おのれの内部《なか》にあふれて来た感動すら彼はそれを説き明かすことができない。
午後から、半蔵は宿のかみさんに自分の出先を断わって置いて、柳原の方にある床屋をさして髭剃《ひげそ》りに出かけた。そこは多吉がひいきにする床屋で、老練な職人のいることを半蔵にも教えてくれたところである。多吉が親しくする俳諧《はいかい》友だちのいずれもは皆その床屋の定連《じょうれん》である。柳床《やなぎどこ》と言って、わざわざ芝の増上寺《ぞうじょうじ》あたりから頭を剃らせに来る和尚《おしょう》もあるというほど、剃刀《かみそり》を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。
「これは、いらっしゃい。」
その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。髷《まげ》のあるもの、散髪のもの、彼のように総髪《そうがみ》にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者|仮名垣魯文《かながきろぶん》の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子《でし》に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長《ゆうちょう》なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石《といし》の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを磨《と》ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた髭《ひげ》が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。
いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田橋外で御通輦を待ち受けた話をはじめた客がそこにある。客は当日の御道筋に人の出たことから、一人《ひとり》の直訴《じきそ》をしたもののあったことを言い出し、自身でその現場を目撃したわけではないが、往来《ゆきき》の人のうわさにそれを聞いて気狂いと思って逃げ帰ったという。思わず半蔵はハッとした。でも、彼は自分ながら不思議なくらいおちついたこころもちに帰って、まるで他人のことのように自分のうわさ話を聞きながら、床屋の亭主がするままに身を任せていた。親譲りの大きく肉厚《にくあつ》な本陣鼻から、耳の掃除《そうじ》までしてもらった。
何げなく半蔵は床屋を出た。上手《じょうず》な亭主が丁寧に逆剃《さかぞ》りまでしてくれてほとんどその剃刀を感じなかったほどの仕事を味わったあとで、いささか頬《ほお》は冷たいというふうに。
その足で半蔵は左衛門町の二階へ引き返して行った。静かな西向きの下窓がそこに彼を待っている。そこは彼が一夏の間、慣れない東京の暑さに苦しんで、よく涼しい風を入れに行ったところだ。部屋《へや》は南に開けて、その外が町の見える縁側になっているが、きれい好きな宿のかみさんは彼の入檻中に障子を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。
過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に戻《もど》っていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房《かんぼう》の方に孤坐《こざ》した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教《ヤソきょう》の蔓延《まんえん》を憂い、そのための献言も仕《つかまつ》りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて罷《まか》り在《あ》ったから、御先乗《おさきのり》とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。
すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが頑《かたくな》な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延《まんえん》を憂いているというではない。もともと切支丹宗《キリシタンしゅう》取り扱いの困難は織田信長《おだのぶなが》時代からのこの国のものの悩みであって、元和《げんな》年代における宗門|人別帳《にんべつちょう》の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子《うまやどのおうじ》が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国の根本とし、儒仏をその枝葉とすることは、神祇局《じんぎきょく》以来の一大方針で、耶蘇《ヤソ》教徒たりともこの根本を保全するが道であるというふうに半蔵らは考えた。ところが外国宣教師は種々《さまざま》な異議を申し立て、容易にこの方針に従わない。それに力を得た真宗の僧侶《そうりょ》までが勝手を主張しはじめ、独立で布教に従事するものを生じて来た。半蔵は教部省に出仕して見てこのことを痛感した。外国宣教師の抗議に対して今日のような妥協に妥協をのみ重ねるとしたら、各派教導職の不平も制《おさ》えがたくなって、この国の教化事業はただただ荒れるに任せ、一切を建て直そうとする御一新の大きな気象もついには失われて行くであろう。神祇局は神祇省となり、神祇省は教部省となった。結局、教部省というものも今に廃されるであろう。このことが彼を悲しませる。
二百余年前、この国において、ホルトガル人、イスパニア人を追放したころの昔と、明治七年の今とでは、もとより外国の風習も大いに異なっているかもしれない。今の西洋は昔ほど宗門のことを皆願っているというふうではないかもしれない。それはすでに最初の米国領事ハリスがこの国のものに教えたことである。あのハリスが言うように、今のアメリカあたりでは宗門なぞは皆、人々の望みに任せ、それこれを禁じまたは勧めるようなことはさらにないかもしれない。何を信仰しようとも人々の心次第であるかもしれない。今のヨーロッパで見いだした信仰の基本とは、人々銘々の心に任せるよりほかにいたし方もないと決着したとある。半蔵とても一応そのことを考慮しないではなかったが、しかし自分らの子孫のためにもこれはゆるがせにすべきでないと思って来た。宗教の事ほどその源の清く、その末の濁りやすいものもすくない。わが国神仏|混淆《こんこう》の歴史は何よりも雄弁にそれを語っている。この先、神耶《しんヤ》混淆のような事が起こって来ないとは決して言えなかった。どんな耶蘇の宣教師が渡来して、根気もあり智《さと》りも深くて、人をなつけ、新奇を好むこの国のものに根本と枝葉との区別をすら忘れさせるようなことが起こって来ないとは、これまた決して言えなかった。御一新もまだ成就しない今のうちに、国民教化の基準をしっかりと打ち建てて置きたい。それが半蔵らの願いであった。
静かなところで想《おも》い起こして見ると、あだかも目に見えない細い糸筋のように、いろいろな思いがそれからそれと引き出される。郷里の方に留守居する継母や妻子のこともしきりに彼の胸に浮かんで来た。彼は今度の事件がどんなふうに村の人たちのうわさに上るだろうかと思い、これがまた彼の飛騨行きにどう響くかということも心にかかった。
三
十一月二十九日に、半蔵は東京裁判所の大白洲《おおしらす》へ呼び出された。その時、彼は掛りの役人から口書《くちがき》を読み聞かせられたので、それに相違ない旨《むね》を答えると、さらに判事庁において先刻の陳述は筆記書面のとおりに相違ないかと再応の訊問《じんもん》があった。彼が相違ない旨を答えると、それなら調印いたせとの言葉に、即刻調印を差し上げた。追って裁断に及ぶべき旨を言い聞かせられて、彼はその場を退いて来た。
とりあえず半蔵はこのことを多吉夫婦の耳に入れ、郷里の留守宅あてにもありのままを書いて、自分の粗忽《そこつ》から継母にまで心配をかけることはまことに申し訳がないと言い送った。のみならず、このために帰国の日もおくれ、飛騨行きまで延び、いろいろ心にかかることばかりであるがこれもやむを得ない、このまま帰国は許されないから裁断申し渡しの日が来るまでよろしく留守居を頼むとも言い送った。なお、彼は裁判所での模様を新乗物町の方へ手紙で知らせてやると、月を越してからわざわざ彼を見に来てくれたのも金丸恭順であった。
「青山君、いくら御謹慎中だって、そう引っ込んでばかりいなくてもいいでしょう。せめて両国辺まで出てごらんなさい。台湾の征蕃兵《せいばんへい》がぽつぽつ帰って来るようになりましたぜ。」
恭順はこんな話を持って左衛門町の二階へ上がって来た。征蕃兵が凱旋《がいせん》を迎えようとする市内のにぎわいも、半蔵はそれを想像するにとどめて、わびしくこもり暮らしている時である。恭順の顔を見ると、半蔵は裁断申し渡しの日の待ちどおしいことを言い、その結果いかんではせっかく彼を懇望する飛騨地方の人たちが思惑《おもわく》もどうあろうかと言い出す。その時、恭順は首を振って、これが他の動機から出た行為なら格別、一点の私心もない憂国の過慮からであって見れば、飛騨の方は心配するほどのことはあるまい、なお、田中不二麿からも飛騨有志あてに一筆書き送ってもらうことにしようと語った末に、言った。
「どうです、青山君、君も新乗物
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