うな山の中じゃありませんからね。なかなか。」
その時、多吉はお隅の方を見て言った。「お隅、青山さんが今度いらっしゃるところは、東京からだと、お前、百何里というから驚くね。お国からまだ二十里あまりもある。そうさ、二十里あまりさ。それがまた大変な山道で、馬も通わないところだそうだ。青山さんも、えらい奮発さね。」
そういう多吉はもう半蔵が行くことに定《き》めてしまっている。お隅は、と見ると、このかみさんもまたしいて彼を止めようとはしなかった。ちょうど師の鉄胤が彼に言ったと同じようなことを言って、これから神職を奉じに行く彼のために、遠く不自由な旅のしたくのことなぞを心配してくれる。
「多吉さん夫婦だけはおれを止めるかと思った。」
間もなく二階に上がって行ってからの半蔵のひとり言《ごと》だ。
実のところ、彼はだれかに引き止めてもらいたかった。そして一人《ひとり》でも引き止めるものがあったら、自分でも思い直して見ようと考えていたくらいだ。いかに言っても、これから彼が踏もうとする路《みち》は遠く寂しく険しい上に、そこいらはもはや見るもの聞くもの文明開化の風の吹き回しだ。何よりもまず中世の殻《から》を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの近《ちか》つ代《よ》であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする業《わざ》に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙《へんぴ》な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。
五
長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く鎖《とざ》されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。
はじめて唐船《からふね》があの長崎の港に来たのは永禄《えいろく》年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀《げんき》元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十|艘《そう》を数え、ある年は蘭船《らんせん》四、五艘を数えたが、ついに貞享《じょうきょう》元禄《げんろく》年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、高麗《こうらい》船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保《しょうほう》元年、明朝《みんちょう》が亡《ほろ》びて清朝《しんちょう》となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶《そうりょ》で本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。寛延《かんえん》年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、荷田春満《かだのあずままろ》あたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い砥石《といし》として、あれほど日本的なものを磨《みが》きあげたのを見ても、思い半ばに過ぐるものがあろう。日本の国運循環して、昨日まで読むことを禁じられてあった蕃書《ばんしょ》も訳され、昨日まで遠ざけられた洋学者も世に出られることとなると、かつて儒仏の道の栄えたように、にわかに洋学のひろまって行くようになったことも不思議はない。この国にはすでに蘭学というものを通し、あるいは漢訳の外国書を通して、長いしたくがあったのだ。天文、地理の学にも、数学、医学、農学、化学にも、また兵学にもというふうに。外国の歴史や語学のことは言うまでもない。まったく、新奇を好むこの国の人たちは、ヨーロッパ人が物の理を考え究《きわ》めることのはなはだ賢いのに驚き、発明の新説を出すのに驚き、器械の巧みなのに驚き、医薬|製煉《せいれん》の道のことにくわしいのにも驚いてしまった。
当時、外国の事情もまだ充分には究められなかったような社会に、西洋は実にすばらしいものだという人をそう遠いところに求めるまでもなく、率先して新しい風俗に移るくらいのものは半蔵が宿の亭主多吉のすぐそばにもいた。その人は多吉の主人筋に当たり、東京にも横浜にも店を持ち、海外へ東海道辺の茶、椎茸《しいたけ》、それから生糸等を輸出する賢易商であった。そのくせ、多吉は西洋のことなぞに一向|無頓着《むとんちゃく》で、主人が西洋人から手に入れて珍重するという寒暖計の性質も知らず、その気候温度の昇《のぼ》り降りを毎日の日記につけ込むほどの主人が燃えるような好奇心をもよそに、暇さえあれば好きな俳諧《はいかい》の道に思いを潜めるような人ではあったが。実際、気の早い手合いの中には、今に日本の言葉もなくなって、皆英語の世の中になると考えるものもある。皮膚の色も白く鼻筋もよくとおった西洋人と結婚してこそ、より優秀な人種を生み出すことができると考えるものもある。こうなると、芝居《しばい》の役者まで舞台の上から見物に呼びかけて、
「文明開化を知らないものは、愚かでござる。」
と言う。五代目|音羽屋《おとわや》のごときは英語の勉強を始めたと言って、俳優ながら気の鋭いものだと当時の新聞紙上に書き立てられるほどの世の中になって来ていた。
かくも大きな洪水《こうずい》が来たように、慶応四年開国以来のこの国のものは学問のしかたから風俗の末に至るまでも新規まき直しの必要に迫られた。日本の中世的な封建制度が内からも外からも崩《くず》れて行って、新社会の構成を急ぐ混沌《こんとん》とした空気の中に立つものは、眼前に生まれ起こる数多くの現象を目撃しつつも、そうはっきりした説を立てうるものはなかった。というのは、いずれもその空気の中に動いていて、一切があまりに身に近いからであった。半蔵にしてからが、そうだ。ただ馬籠駅長として実際その道に当たって見た経験から、彼の争えないと想《おも》っていることは、一つある。交通の持ち来たす変革は水のように、あらゆる変革の中の最も弱く柔らかなもので、しかも最も根深く強いものと感ぜらるることだ。その力は貴賤《きせん》貧富を貫く。人間社会の盛衰を左右する。歴史を織り、地図をも変える。そこには勢い一切のものの交換ということが起こる。あの横浜開港の当時、彼は馬籠本陣の方にいて、幾多の小判《こばん》買いが木曾街道にまで入り込んだことを記憶する。国内に流通する小判、一|分《ぶ》判なぞがどんどん海の外へ流れ出して行き、そのかわりとして輸入せらるるものの多くは悪質な洋銀であった。古二朱金、保字《ほうじ》小判なぞの当時に残存した良質の古い金貨はあの時に地を払ってしまったことを覚えている。もしそれと同じようなことが東西文物の上に起こって来て、自分らの持つ古い金貨が流れ出して行き、そのかわりにはいって来る新しい文明開化が案外な洋銀のようなものであるとしたら、それこそ大変な話だと思われて来た。
月の中旬が来るころには、いよいよ半蔵が水無神社宮司の拝命もおもてむきの沙汰《さた》となった。もはや彼の東京にとどまるのも数日を余すのみとなった。
朝が来た。例のように半蔵が薄暗い空気の中で水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わるころは、まだ多吉方の下女も起き出さないで、井戸ばたに近い勝手口の戸障子も閉《し》まっていた。そこいらには、町中ながらに鶏の鳴き声が朝霧の中に聞こえていた。
その日、半蔵は帝《みかど》の行幸のあることを聞き、神田橋《かんだばし》まで行けばその御道筋に出られることを知り、せめて都を去る前に御通輦《ごつうれん》を拝して行こうとしていた。彼はそのことを多吉夫婦に告げ、朝の食事をすますとすぐ羽織袴《はおりはかま》に改めて、茅場町《かやばちょう》の店へ勤めに通う亭主より一歩《ひとあし》早く宿を出た。神田川について、朝じめりのした道路の土を踏んで行くと、次第に町々の空も晴れて、なんとなく改まった心持ちが彼の胸にわいた。今は彼も水無神社の宮司であるばかりでなく、中講義を兼ねていた。
神田橋見附跡の外には、ぽつぽつ奉拝の人々が集まりつつあった。待つこと二時間ばかり。そのうちに半蔵の周囲は、欄干の支柱にからかねの擬宝珠《ぎぼし》のついた古ぼけた橋の畔《たもと》から、当時「青い戸袋」と呼びなされた屋敷長屋のペンキ塗りの窓の下の方へかけて、いっぱいの人で、どうかすると先着の彼なぞはうしろにいるものから前の方へ押し出されるほどになった。そのたびに、棒を携えた巡査が前列にあるものを制しに来た。
明治七年十一月十七日のことで、過ぐる年の征韓論《せいかんろん》破裂の大争いの記憶が眼前に落ち尽くした霜葉と共にまた多くの人の胸に帰って来るころだ。半蔵はそう思った。かくも多勢のものが行幸を拝しようとして、御道筋に群がり集まるというのも、内には政府の分裂し外には諸外国に侮らるる国歩|艱難《かんなん》の時に当たって、万民を統《す》べさせらるる帝に同情を寄せ奉るものの多い証拠であろうと。彼は自分の今お待ち受けする帝が日本紀元二千五百余年来の慣習を破ってかつて異国人のために前例のない京都建春門を開かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢《くさむら》の中にある名もない民の一人《ひとり》でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫《はんらん》を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、
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蟹《かに》の穴ふせぎとめずは高堤《たかづつみ》やがてくゆべき時なからめや 半蔵
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この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
さらに三十分ほど待った。もはや町々を警《かた》めに来る近衛《このえ》騎兵の一隊が勇ましい馬蹄《ばてい》の音も聞こえようかというころになった。その鎗先《やりさき》にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情《こころ》が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗《おさきのり》と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額《ひたい》を大地につけ、袴《はかま》のままそこにひざまずいた。
「訴人《そにん》だ、訴人だ。」
その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
[#改頁]
第十二章
一
五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨《ひだ》の水無《みなし》神社|宮司《ぐうじ》を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦《ごつうれん》を拝しに行くと言って、
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