して来た。その中にある半紙四つ折りの二冊の手帳を半蔵の前に置いて見せた。
「さあ、これだ。」
 恭順がそこへ取り出したのは、半蔵の旧友|蜂谷《はちや》香蔵がこの同門の医者のもとに残して置いて行ったものである。恭順は久しいことそれをしまい込んで置いて、どうしても見当たらなかったが、最近に本箱の抽斗《ひきだし》の中から出て来たと半蔵に語り、あの香蔵が老師鉄胤のあとを追って上京したのは明治二年の五月であったが、惜しいことに東京の客舎で煩《わずら》いついたと語った末に言った。
「でも、青山君、世の中は広いようで狭い。君の友だちのからだをわたしが診《み》てあげたなんて、まったく回り回っているもんですわい。」
 こんな話も出た。
 飛騨行きのことを勧めてくれたこの医者にも、恭順を通じてその話を伝えさせた不二麿にも、また、半蔵が平田篤胤没後の門人であり多年勤王のこころざしも深かった人と聞いてぜひ水無神社の宮司にと懇望するという飛騨地方の有志者にも、これらの人たちの厚意に対しては、よほど半蔵は感謝していいと思った。やがて彼は旧友の日記を借り受けて、恭順が家の門を出たが、古い神社の方へ行って仕えられる日の来たことは、それを考えたばかりでも彼には夢のような気さえした。
 飛騨の山とは、遠い。しかし日ごろの願いとする斎《いつき》の道が踏める。それに心を動かされて半蔵は多吉の家に引き返した。動揺して定まりのなかった彼も大いに心を安んずる時がありそうにも思われて来た。とりあえず、その話を簡単に多吉の耳に入れて置いて、やがてその足で彼は二階の梯子段《はしごだん》を上って行って見た。夕日は部屋《へや》に満ちていた。何はともあれ、というふうに、彼は恭順から借りて来た友人の日記を机の上にひろげて、一通りざっと目を通した。「東行日記、巳《み》五月、蜂谷香蔵」とある。鉄胤先生もまだ元気いっぱいであった明治二年のことがその中に出て来た。同門の故人|野城広助《のしろひろすけ》のために霊祭をすると言って、若菜基助《わかなもとすけ》の主催で、二十余人のものが集まった記事なぞも出て来た。その席に参列した先輩師岡正胤は当時|弾正大巡察《だんじょうだいじゅんさつ》であり、権田直助は大学|中博士《ちゅうはかせ》であり、三輪田元綱《みわたもとつな》は大学|少丞《しょうじょう》であった。婦人ながらに国学者の運動に加わって文久年代から王事に奔走した伊那伴野《いなともの》村出身の松尾多勢子《まつおたせこ》の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。
 医者の文箱《ふばこ》に入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と対坐《たいざ》でもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は伊勢宇治《いせうじ》の今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生|覊旅《きりょ》の別れ路《みち》に立つ彼半蔵のようなものもある。

       四

 飛騨《ひだ》国大野郡、国幣小社、水無《みなし》神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道《なかせんどう》を通り、木曾路《きそじ》を経て、美濃《みの》の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の加子母村《かしもむら》あたりからはいる高山路《たかやまみち》と来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる山蛭《やまびる》に、往来《ゆきき》の人に取りつく蚋《ぶよ》に、勁《つよ》い風に鳴る熊笹《くまざさ》に、旅するものの行き悩むのもあの山間《やまあい》であるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。
 この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それを意《こころ》にかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身を埋《うず》めるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。
 その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に際会した。半蔵が同門の諸先輩ですら、ややもすれば激しい潮流のために押し流されそうに見えて来た。いったい、幕末から御一新のころにかけて、あれほどの新機運をよび起こしたというのも、その一つは大義名分の声の高まったことであり、その声は水戸藩にも尾州藩にも京都儒者の間にも起こって来た修史の事業に根ざしたことであった。そういう中で、最も古いところに着眼して、しかも最も新しい路をあとから来るものに教えたのは国学者仲間の先達《せんだつ》であった。あの賀茂真淵《かものまぶち》あたりまでは、まだそれでもおもに万葉を探ることであった。その遺志をついだ本居宣長が終生の事業として古事記を探るようになって、はじめて古代の全き貌《すがた》を明るみへ持ち出すことができた。そこから、一つの精神が生まれた。この精神は多くの夢想の人の胸に宿った。後の平田篤胤、および平田派諸門人が次第に実行を思う心はまずそこに胚胎《はいたい》した。なんと言っても「言葉」から歴史にはいったことは彼らの強味で、そこから彼らは懐古でなしに、復古ということをつかんで来た。彼らは健全な国民性を遠い古代に発見することによって、その可能を信じた。それにはまずこの世の虚偽を排することから始めようとしたのも本居宣長であった。情をも撓《た》めず欲をもいとわない生の肯定はこの先達があとから歩いて来るものにのこして置いて行った宿題である。その意味から言っても、国学は近《ちか》つ代《よ》の学問の一つで、何もそうにわかに時世おくれとされるいわれはないのであった。
 もともと平田篤胤が後継者としての鉄胤は決して思いあがった人ではない。故篤胤翁の祖述者をもって任ずる鉄胤は、一切の門人をみな平田篤胤没後の門人として取り扱い、決しておのれの門人とは見なさなかったのが、何よりの証拠だ。多くの門人らもまたこの師の気風を受け継がないではない。ただ復古の夢を実顕するためには、まっしぐらに駆けり出そうとするような物を企つる心から、時には師の引いた線を超《こ》えて埓《らち》の外へ飛び出したものもあった。けれども、その単純さから、門人同志の親しみも生まれ、団結も生まれることを知ったのであった。あの王政復古の日が来ると同時に、同門の人たちの中には武器を執って東征軍に従うものがあり、軍の嚮導者《きょうどうしゃ》たることを志すものがあり、あるいは徳川幕府より僧侶《そうりょ》に与えた宗門権の破棄と神葬復礼との方向に突き進むものがあって、過去数百年にわたる武家と僧侶との二つの大きな勢力を覆《くつがえ》すことに力を尽くしたというのも、みなその単純な、しかし偽りも飾りもない心から出たことであった。ことに神仏分離の運動を起こして、この国の根本と枝葉との関係を明らかにしたのは、国学者の力によることが多いのであり、宗教|廓清《かくせい》の一新時代はそこから開けて来た。暗い寺院に肉食妻帯の厳禁を廃し、多くの僧尼の生活から人間を解き放ったというのも、虚偽を捨てて自然《おのずから》に帰れとの教えから出たことである。すくなくもこの国学者の運動はまことの仏教徒を刺激し、その覚醒《かくせい》と奮起とを促すようになった。いかんせん、多勢寄ってたかってすることは勢いを生む。しまいには、地方官の中にすら廃仏の急先鋒《きゅうせんぽう》となったものがあり、従来の社人、復飾の僧侶から、一般の人民まで、それこそ猫《ねこ》も杓子《しゃくし》もというふうにこの勢いを押し進めてしまった。廃寺は毀《こぼ》たれ、垣《かき》は破られ、墳墓は移され、残った礎《いしずえ》や欠けた塊《つちくれ》が人をしてさながら古戦場を過ぐるの思いを抱《いだ》かしめた時は、やがて国学者諸先輩の真意も見失われて行った時であった。言って見れば、国学全盛の時代を招いたのは廃仏運動のためであった。しかも、廃仏が国学の全部と考えられるようになって、かえって国学は衰えた。
 いかに平田門人としての半蔵なぞがやきもきしても、この頽勢《たいせい》をどうすることもできない。大きな自然《おのずから》の懐《ふところ》の中にあるもので、盛りがあって衰えのないものはないように、一代の学問もまたこの例にはもれないのか。その考えが彼を悲しませた。彼には心にかかるかずかずのことがあって、このまま都を立ち去るには忍びなかった。


 まだ半蔵の飛騨行きは確定したわけではない。彼は東京にある知人の誰彼《たれかれ》が意見をもそれとなく聞いて見るために町を出歩いた。何も飛騨の山まで行かなくとも他に働く道はあろうと言って彼を引き止めようとしてくれる人もない。今はそんな時ではないぞと言ってくれるような人はなおさらない。久しく訪《たず》ねない鉄胤老先生の隠栖《いんせい》へも、御無沙汰《ごぶさた》のおわびをかねてその相談に訪ねて行って見ると、師には引き止められるかと思いのほか、一生に一度はそういう旅をして来るのもよかろうとの老先生らしい挨拶《あいさつ》であった。
 その時になっても、まだ半蔵は右すべきか左すべきかの別れ路に迷っていた。彼は自分で自分に尋ねて見た。一筋の新しい進路は開けかかって来た、神の住居《すまい》も見えて来た、今は迷うところなくまッすぐにたどりさえすればいい、この期《ご》に臨んで何を自分は躊躇《ちゅうちょ》するのか、と。それに答えることはたやすそうで、たやすくない。彼が本陣問屋と庄屋を兼ねた時代には、とにもかくにも京都と江戸の間をつなぐ木曾街道中央の位置に住んで、山の中ながらに東西交通の要路に立っていた。この世の動きは、否でも応でも馬籠駅長としての彼の目の前を通り過ぎた。どうして、新旧の激しい争いがさまざまの形をとってあふれて来ている今の時に、そんなことは一切おかまいなしで、ただ神を守りにさえ行けばそれでいいというものではなかった上に、いったん飛騨の山のような奥地に引ッ込んでしまえば容易に出て来られる境涯《きょうがい》とも思われなかったからで。
 こういう時に馬籠隣家の伊之助でもそばにいたら、とそう半蔵は思わないではなかった。いかんせん、親しくあの隣人の意見をたたいて見ることもかなわない。この飛騨行きについては、多吉夫婦も実際どう思っていてくれるかと彼は考えた。男まさりな宿のかみさんは婦人としての教養もろくろく受ける機会のなかったような名もない町人の妻ではあるが、だんだん彼も付き合って見て、盤根錯節《ばんこんさくせつ》を物ともしないそのまれな気質を彼も知っていた。人は物を見定めることが大切で、捨つべきことは思い切りよく捨てねばならない、それのできないようなものは一生ウダツが揚がらないと、日ごろ口癖のように言っているのもお隅《すみ》だ。遠い親類より近い他人の言うこともよく聞いて見ようとして、やがて彼は町から引き返した。
 多吉の家では、ちょうど亭主も今の勤め先にあたる茅場町《かやばちょう》の店から戻《もど》って来ている時であった。そこへ半蔵が帰って行くと、多吉は彼を下座敷に迎え入れて言った。
「青山さん、いよいよ高山行きと定《きま》りましたかい。」
「いえ。」と半蔵は答えた。「わたしはまだお請けしたわけじゃありませんがね、まあ、行って働いて来るなら、今のうちでしょう。ずっと年を取ってから、行かれるよ
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