むような空気の中で、国学の権威もあったものではない。そのことがすでに彼には堪《た》え忍べなかった。
二
「なんだか、ぼんやりした。あのお粂《くめ》のことがあってから、おれもどうかしてしまった。はて、おれも路《みち》に迷ったかしらん……」
新生涯を開拓するために郷里の家を離れ、どうかして斎《いつき》の道を踏みたいと思い立って来た半蔵は、またその途上にあって、早くもこんな考えを起こすようになった。
すこしく感ずるところがあって、常磐橋の役所も退《ひ》くつもりだ。そのことを彼は多吉夫婦に話し、わびしい旅の日を左衛門町に送っていた。彼は神田明神の境内へ出かけて行って、そこの社殿の片すみにすわり、静粛な時を送って来ることを何よりの心やりとする。時に亭主《ていしゅ》多吉に誘われれば、名高い講釈師のかかるという両国の席亭の方へ一緒に足を向けることもある。そこへ新乗物町に住む医師の金丸恭順《かなまるきょうじゅん》が訪《たず》ねて来た。恭順はやはり平田門人の一人である。同門の好《よし》みから、この人はなにくれとなく彼の相談相手になってくれる。その時、彼は過ぐる日のいきさつを恭順の前に持ち出し、実はこれこれでおもしろくなくて、役所へも出ずに引きこもっているが、本居翁の門人で斎藤彦麿のことを聞いたことがあるかと尋ねた。恭順はその話を聞くと腹をかかえて笑い出した。江戸の人、斎藤彦麿は本居|大平《おおひら》翁の教え子である、藤垣内《ふじのかきつ》社中の一人である、宣長翁とは時代が違うというのである。
「して見ると、人違いですかい。」
「まずそんなところだろうね。」
「これは、どうも。」
「そりゃ君、本居と言ったって、宣長翁ばかりじゃない、大平翁も本居だし、春庭《はるにわ》先生だっても本居だ。」
二人《ふたり》はこんな言葉をかわしながら、互いに顔を見合わせた。
恭順に言わせると、宣長の高弟で後に本居姓を継いだ大平翁は早く細君を失われた人であったと聞く。そこからあの篤学な大平翁も他《ひと》の知らないさびしい思いを経験されたかもしれない。それにしても、内弟子として朝夕その人に親しんで見た彦麿がそんな調子で日記をつけるかどうかも疑わしい上に、もしあの弟子の驚きが今さらのように好色の心を自分の師翁に見つけたということであったら、それこそ彦麿もにぶい人のそしりをまぬかれまい。まこと国学に心を寄せるほどのものは恋をとがめないはずである。よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめるとは、あの宣長翁の書きのこしたものにも見える。
こんな話をしたあとで、
「いやはや、宣長翁も飛んだ濡衣《ぬれぎぬ》を着たものさね。」
恭順は大笑いして帰って行った。そのあとにはいくらか心の軽くなった半蔵が残った。「よい人は恋を許すが、そうでない人は恋をとがめる」とは恭順もよい言葉を彼のところに残して置いて行った。彼はそう思った。もし先輩が道化役者なら、それをおもしろがって見物する後輩の同僚は一層の道化役者ではなかろうかと。まったく、男の女にあう路は思いのほかの路で、へたな理屈にあてはまらない。この路ばかりは、どんな先輩にも過《あやま》ちのないとは言えないことであった。あながちに深く思いかえしても、なおしずめがたく、みずからの心にもしたがわない力に誘われて、よくない事とは知りながらなお忍ぶに忍ばれない場合は世に多い。あの彦麿が日記の中にあるというように、大平翁ほどの人がそんな情熱に身を任せたろうとは、彼には信じられもしなかったが、仮にそんな時代があって、蒸し暑く光の多い夏の夜なぞは眠られずに、幾度か寝所を替えられたようなことがあったとしても、あれほど他《ひと》におもねることをしなかった宣長翁の後継者としては、おのれにおもねることをもされなかったであろう。おそらく、自分はこのとおり愚かしいと言われたであろうと彼には思われた。それにしても、本居父子の本領は別にある。宣長翁にあっては、深い精神にみちたものから単なる動物的なものに至るまで――さては、源氏物語の中にあるあの薄雲女院《うすぐもにょういん》に見るような不義に至るまでも、あらゆる相《すがた》において好色はあわれ深いものであった。いわゆる善悪の観念でそれを律することはできないと力説したのが宣長翁だ。彼なぞの最も知りたく思うことは、いかにしてあの大先輩がそれほどの彼岸《ひがん》に達することができたろうかというところにある。その心から彼はあの『玉《たま》の小櫛《おぐし》』を書いた翁を想像し、歴代の歌集に多い恋歌、または好色のことを書いた伊勢《いせ》、源氏などの物語に対する翁が読みの深さを想像し、その古代探求の深さをも想像して、あれほど儒者の教えのやかましく男女は七歳で席を同じくするなと厳重に戒めたような封建社会の空気の中に立ちながら、実に大胆に恋というものを肯定した本居宣長その人の生涯に隠れている婦人にまでその想像を持って行って見た。
しかし、半蔵が教部省を去ろうとしたのは、こんな同僚とのいきさつによるばかりではない。なんと言っても、以前の神祇局は師平田鉄胤をはじめ、樹下茂国《じゅげしげくに》、六人部雅楽《むとべうた》、福羽美静《ふくばよしきよ》らの平田派の諸先輩が御一新の文教あるいは神社行政の上に重要な役割をつとめた中心の舞台である。師の周囲には平田|延胤《のぶたね》、師岡正胤《もろおかまさたね》、権田直助《ごんだなおすけ》、丸山|作楽《さらく》、矢野|玄道《げんどう》、それから半蔵にはことに親しみの深い暮田正香《くれたまさか》らの人たちが集まって、直接に間接に復古のために働いた。半蔵の学友、蜂谷香蔵《はちやこうぞう》、今こそあの同門の道づれも郷里中津川の旧廬《きゅうろ》に帰臥《きが》しているが、これも神祇局時代には権少史《ごんしょうし》として師の仕事を助けたものである。田中|不二麿《ふじまろ》の世話で、半蔵がこんな縁故の深いところに来て見たころは、追い追いと役所も改まり、人もかわりしていたが、それでも鉄胤老先生が神祇官判事として在職した当時の記録は、いろいろと役所に残っていた。ちょうど草の香でいっぱいな故園を訪《おとな》う心は、半蔵が教部省内の一隅《いちぐう》に身を置いた時の心であった。彼はそれらの諸記録をくりひろげるたびに、あそこにだれの名があった、ここにだれの名があったと言って見て、平田一門の諸先輩によって代表された中世否定の運動をそこに見渡すことができるように思った。別当社僧の復飾に、仏像を神体とするものの取り除きに、大菩薩《たいぼさつ》の称号の廃止に、神職にして仏葬を執り行なうものの禁止に――それらはすべて神仏分離の運動にまであふれて行った国学者の情熱を語らないものはない。ある人も言ったように、従来|僧侶《そうりょ》でさえあれば善男善女に随喜|渇仰《かつごう》されて、一生食うに困らず、葬礼、法事、会式《えしき》に専念して、作善《さぜん》の道を講ずるでもなく、転迷開悟を勧めるでもなく、真宗以外におおぴらで肉食妻帯する者はなかったが、だいこく、般若湯《はんにゃとう》、天がい等の何をさす名か、知らない者はなかったのが一般のありさまであった。「されば由緒《ゆいしよ》もなき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色《ひいろ》を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進《かんじん》、奉化《ほうげ》、奉加《ほうが》とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する輩《やから》も風俗壊乱の媒《なかだち》たり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢《きょうしゃ》淫逸《いんいつ》乱行|懶惰《らんだ》なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿《みやくげ》の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉《やりだま》にあげられた。仁和寺《にんなじ》、大覚寺をはじめ、諸|門跡《もんぜき》、比丘尼御所《びくにごしょ》、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物《おさすりもの》、祈祷巻数《きとうかんじゅ》ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧《こむそう》の廃止、天社神道の廃止、修験宗《しゅげんしゅう》の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗《げんぞく》もまた勝手たるべしということになった。従来、祇園《ぎおん》の社も牛頭《ごず》天王と呼ばれ、八幡宮《はちまんぐう》も大菩薩と称され、大社|小祠《しょうし》は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正《てんかいそうじょう》以来の僧侶の勢力も神仏|混淆《こんこう》禁止令によって根から覆《くつがえ》されたのである。
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀《さいし》の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって創《はじ》められた出発当時の意気込みを失ったことを語っていた。すべてが試みの時であったとは言え、各自に信仰を異にし意見を異にし気質を異にする神官僧侶を合同し、これを教導職に補任して、広く国民の教化を行なおうと企てたことは、言わば教部省第一の使命ではあったが、この企ての失敗に終わるべきことは教部省内の役人たちですら次第にそれを感づいていた。初めから一致しがたいものに一致を求め、協和しがたいものに協和を求めたことも、おそらく新政府当局者の弱点の一つであったろう。ともかくもその国民的教化組織の輪郭だけは大きい。中央に神仏合同の大教院があり、地方にはその分院とも見るべき中教院、小教院、あるいは教導職を中心にする無数の教会と講社とがあった。いわゆる三条の教則なるものを定めて国民教導の規準を示したのも教部省である。けれども全国の神官と共に各宗の僧侶をして布教に従事せしめるようなことは長く続かなかった。専断|偏頗《へんぱ》の訴えはそこから起こって来て、教義の紛乱も絶えることがない。外には布教の功もあがらないし、内には協和の実も立たない。真宗五派のごときは早くも合同大教院から分離して、独立して布教に従事したいと申し出るような状態にある。半蔵はこんな内部の動揺しているところへ飛び込んで行ったのであった。役所での彼の仕事は主として考証の方面で、大教院から回して来るたくさんな書類を整理したり、そこで編集された教書に目を通したり、地方の教会や講社から来るさまざまな質疑に答えたりなぞすることであった。彼も幾度か躊躇《ちゅうちょ》したあとで、全く無経験な事に当たった。いかんせん、役所の空気はもはや事を企つるという時代でなく、ただただ不平の多い各派の教導職を相手にして妥協に妥協を重ねるというふうであった。同僚との交際にしても底に触れるものがない。今の教部省が神祇省と言った一つの時代を中間に置いて、以前の神祇局に集まった諸先輩の意気込みを想像するたびに、彼は自分の机を並べる同僚が互いの生《お》い立ちや趣味を超《こ》えて、何一つ与えようともせず、また与えられようともしないと気がついた時に失望した。のみならず、地方の教会や講社から集まって来る書類は机の上に堆高《うずだか》いほどあって、そこにも彼は無数のばからしくくだらない質疑の矢面《やおもて》に立たせられた。たとえば、僧侶たりとも従前の服を脱いで文明開化の新服をまといたいが、仏事
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