に近い。目ざましい繁昌《はんじょう》を約束するようなその界隈《かいわい》は新しいものと旧《ふる》いものとの入れまじりで雑然紛然としていた。
今は旅そのものが半蔵の身にしみて、見るもの聞くものの感じが深い。もはや駕籠《かご》もすたれかけて、一人乗り、二人乗りの人力車《じんりきしゃ》、ないし乗合馬車がそれにかわりつつある。行き過ぎる人の中には洋服姿のものを見かけるが、多くはまだ身についていない。中には洋服の上に羽織《はおり》を着るものがあり、切り下げ髪に洋服で下駄《げた》をはくものもある。長髪に月代《さかやき》をのばして仕合い道具を携えるもの、和服に白い兵児帯《へこおび》を巻きつけて靴《くつ》をはくもの、散髪で書生羽織を着るもの、思い思いだ。うわさに聞く婦人の断髪こそやや下火になったが、深い窓から出て来たような少女の袴《はかま》を着け、洋書と洋傘《ようがさ》とを携えるのも目につく。まったく、十人十色の風俗をした人たちが彼の右をも左をも往《い》ったり来たりしていた。
不思議な縁故から、上京後の半蔵は、教部省御雇いとして一時奉職する身となった。ちょうど教部省は、文部省と一緒に、馬場先《ばばさき》の地から常磐橋《ときわばし》内へ引き移ったばかりで、いろいろな役所の仕事に、国学の畑の人を求めている時であった。この思いがけない奉職は、田中不二麿の勧めによる。彼半蔵の本意はそういうところにあるではなく、どこか古い神社へ行って仕えたい、そこに新生涯を開きたいとの願いから、その手がかりを得たいばかりに、わざわざ今度の上京となったのであるが、しばらく教部省に奉職して時機を待てとの不二麿の言葉もあり、それにむなしい旅食《りょしょく》も心苦しいからであった。教部省は神祇局《じんぎきょく》の後身である。平田一派の仕事は、そこに残っている。そんな関係からも、半蔵の心は動いて、師鉄胤をはじめ、同門諸先輩が残した仕事のあとをも見たいと考え、彼も不二麿の勧めに従った。
とりあえず、彼はこのことを国もとの妻子に知らせ、多吉方を仮の寓居《ぐうきょ》とするよしを書き送り、旅の心もやや定まったことを告げてやった。そういう彼はまだ斎《いつき》の道の途上にはあったが、しかしあの碓氷峠《うすいとうげ》を越して来て、両国《りょうごく》の旅人宿に草鞋《わらじ》を脱いだ晩から、さらに神田川《かんだがわ》に近い町中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身を浄《きよ》めることを始めた。そして毎朝|水垢離《みずごり》を取る習慣をつけはじめた。
今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋《へや》にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には台湾生蕃《たいわんせいばん》征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。
いったん時代から沈んで行った水戸《みと》のことが、またしきりに彼の胸に浮かぶ。彼はあの水戸の苦しい党派争いがほとんど宗教戦争に似ていて、成敗利害の外にあったことを思い出した。あの水戸人の持つたくましい攻撃力は敵としてその前にあらわれたすべてのものに向けられ、井伊大老もしくは安藤老中《あんどうろうじゅう》のような要路の大官にまで向けられたことを思い出した。彼はそれを眼前に生起する幾多の現象に結びつけて見て、かつて水戸から起こったものが筑波《つくば》の旗上げとなり、尊攘《そんじょう》の意志の表示ともなって、活《い》きた歴史を流れたように、今またそれの形を変えたものが佐賀にも、土佐にも、薩摩《さつま》にも活き返りつつあるのかと疑った。
彼は自分で自分に尋ねて見た。
「これでも復古と言えるのか。」
その彼の眼前にひらけつつあったものは、帰り来る古代でもなくて、実に思いがけない近《ちか》つ代《よ》であった。
[#改頁]
第十一章
一
東京の町々はやがてその年の十月末を迎えた。常磐橋《ときわばし》内にある教部省では役所のひける時刻である。短い羽織に袴《はかま》をつけ、それに白足袋《しろたび》、雪駄《せった》ばきで、懐中にはいっぱいに書物をねじ込みながら橋を渡って行く人は、一日の勤めを終わった役所帰りの半蔵である。
その日かぎり、半蔵は再び役所の門を潜《くぐ》るまい、そこに集まる同僚の人たちをも見まいと思うほどのいらいらした心持ちで、鎌倉河岸《かまくらがし》のところに黄ばみ落ちている柳の葉を踏みながら、大股《おおまた》に歩いて行った。もともと今度の上京を思い立って国を出た時から、都会での流浪《るろう》生活を覚悟して来た彼である。半年の奉職はまことに短かったとは言え、とにもかくにも彼は神祇局の後身ともいうべき教部省に身を置いて見て、平田一派の諸先輩がそこに残した仕事のあとを見ただけにも満足しようとした。例の浅草|左衛門町《さえもんちょう》にある多吉の家をさして帰って行くと、上京以来のことが彼の胸に浮かんで来た。ふと、ある町の角《かど》で、彼は足をとめて、ホッと深いため息をついた。その路《みち》は半年ばかり彼が役所へ往復した路である。柄《がら》にもない教部省御雇いとしての位置なぞについたのは、そもそも自分のあやまりであったか、そんな考えがしきりに彼の胸を往《い》ったり来たりした。
「これはおれの来《く》べき路ではなかったのかしらん。」
そう考えて、また彼は歩き出した。
仮の寓居《ぐうきょ》と定めている多吉の家に近づけば近づくほど、名のつけようのない寂しさが彼の胸にわいた。彼は泣いていいか笑っていいかわからないような心持ちで、教部省の門を出て来たのである。
左衛門橋に近い多吉夫婦が家に戻《もど》って二階の部屋《へや》に袴をぬいでからも、まだ半蔵はあの常磐橋内の方に身を置くような気がしている。役所がひける前の室内の光景はまだ彼の目にある。そこには担当する課事を終わって、机の上を片づけるものがある。風呂敷包《ふろしきづつ》みを小脇《こわき》にかかえながら雑談にふけるものもある。そのそばには手で頤《おとがい》をささえて同僚の話に耳を傾けるのもある。さかんな笑い声も起こっている。日ごろ半蔵が尊信する本居宣長《もとおりのりなが》翁のことについて、又聴《またぎ》きにした話を語り出した一人《ひとり》の同僚がそこにある。それは本居翁の弟子《でし》斎藤彦麿《さいとうひこまろ》の日記の中に見いだされたことだというのである。ある日、彦麿はじめ二、三の内弟子が翁の家に集まって、「先生は実に活神様《いきがみさま》だ」と話しながら食事していると、給仕の下女がにわかに泣き出したというのである。子細をたずねると、その女の答えるには、実はその活神様が毎晩のように自分の寝部屋へ見える、うるささのあまり、昨夜は足で蹴《け》ってやったが、そんな立派な活神様では罰が当たって、この足が曲がりはしないかと、それで泣いたのだと言われて、彦麿もあいた口がふさがらなかったというのである。それを聞くと、そこにいたものは皆笑った。その話をはじめた同僚はますます得意になって、「いったい、下女の寝部屋へはいり込むようなものにかぎって、人格者だ」とやり出す。この「人格者」がまた一同を笑わせた。半蔵は顔色も青ざめて、その同僚の口から出たような話がどこまで本当であるやもわからなかったし、また、斎藤彦麿の日記なるものがどこまで信用のできるものかもわからなかったから、それをくどく言い争う気にはならなかったが、しかしそこに集まる人たちが鬼の首でも取ったようにそんな話をして楽しむということに愛想《あいそ》をつかした。前に本居宣長がなかったら、平田|篤胤《あつたね》でも古人の糟粕《そうはく》をなめて終わったかもしれない。平田篤胤がなければ、平田|鉄胤《かねたね》もない。平田鉄胤がなければ、結局今の教部省というものもなかったかもしれない。そのことがとっさの間に彼の胸へ来た。思わず彼はその同僚の背中を目のさめるほど一つどやしつけて置いて、それぎり役所を出て来てしまった。それほど彼もいらいらとしていた。
十月末のことで、一日は一日より深くなって行く秋が旅にある半蔵の身にひしひしと感じられた。神田川はその二階の位置から隠れて見えないまでも、ごちゃごちゃとした建物の屋根の向こうに沈んだ町の空が障子の開いたところから彼の目に映る。長いこと彼はひとりですわっていて、あたりの町のすべてが湿った空気に包まれて行くのをながめながら、自分で自分のしたことを考えた。
「いくら人の欠点を知ったところで、そんなことが何になろう。」
と考えて、彼はそれを役所の同僚の話に結びつけて見た。
彼はある人の所蔵にかかる本居翁の肖像というものを見たことがある。それは翁が名古屋の吉川義信という画工にえがかせ、その上に和歌など自書して門人に与えたものの一つである。その清い眉《まゆ》にも涼しい目もとにも老いの迫ったという痕跡《こんせき》がなく、まだみずみずしい髪の髻《もとどり》を古代紫の緒《ひも》で茶筅風《ちゃせんふう》に結び、その先を前額の方になでつけたところは、これが六十一歳の翁かと思われるほどの人がその画像の中にいた。翁は自意匠よりなる服を造り、紗綾形《さやがた》の地紋のある黒縮緬《くろちりめん》でそれを製し、鈴屋衣《すずのやごろも》ととなえて歌会あるいは講書の席上などの式服に着用した人であるが、その袖口《そでぐち》には紫縮緬の裏を付けて、それがまたおかしくなかったと言わるるほどの若々しさだ。早く老《ふ》けやすいこの国の人たちの中にあって、どうしてそれほどの若さを持ち続け得たろうかと疑われるばかり。こんな人が誤解されやすいとしたら、それこそ翁の短所からでなくて、むしろ晩年に至るまでも衰えず若葉してやまなかったような、その長い春にこもる翁の長所からであったろうと彼には思われる。彼の心に描く本居宣長とは、あの先師平田篤胤に想像するような凜々《りり》しい容貌《ようぼう》の人ともちがって、多分に女性的なところを持っていた心深い感じのする大先輩であった。そして、いかにもゆったりとその生涯《しょうがい》を発展させ、天明《てんめい》の昔を歩いて行った近《ちか》つ代《よ》の人の中でも、最も高く見、最も遠く見たものの一人《ひとり》であった。そのかわり、先師篤胤は万事明け放しで、丸裸になって物を言った。そこが多くの平田門人らにとって親しみやすくもあったところだ。本居翁にはそれはない。寛《ひろ》いふところに、ありあまるほどの情意を包みながら、言説以外にはそれも打ち出さずに、終生つつましく暮らして行かれたようなその人柄は、内弟子にすら近づきがたく思われたふしもあったであろう。ともあれ、日ごろ彼なぞが力と頼む本居翁も口さがない人たちにかかっては、滑稽《こっけい》な戯画の中の人物と化した。先輩を活神様にして祭り上げる人たちは、また道化役者《どうけやくしゃ》にして笑いたがる人たちである。そんな態度が頼みがいなく思われる上に、又聞《またぎ》きにしたくらいの人の秘密をおもしろ半分に振り回し、下世話《げせわ》にいう肘鉄《ひじてつ》を食わせたはしたない女の話なぞに興がって、さも活神様の裏面に隠れた陰性な放蕩《ほうとう》をそこへさらけ出したという顔つきでいるそういう同僚を彼は片腹痛く思った。きく人もまたすこぶる満足したもののごとく、それを笑い楽し
前へ
次へ
全49ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング