見せ、大使帰朝に至るまではやむを得ない事件のほかは決して改革しないとの誓言のあることを言い、今この誓言にそむいて、かかる大事を決行するの不可なるを説き、大使帰朝の後を待てと言いさとした。隆盛は寡言《かげん》の人である。彼は利秋のように言い争わなかった。しかしもともと彼の武人|気質《かたぎ》は戊辰《ぼしん》当時の京都において慶喜の処分問題につき勤王諸藩の代表者の間に激しい意見の衝突を見た時にも、剣あるのみの英断に出、徳川氏に対する最後の解決をそこに求めて行った人である。その彼は容易ならぬ周囲の形勢を見、部下の要求の制《おさ》えがたいことを知り、後には自ら進んで遣韓大使ともなり朝鮮問題の解決者たることを志すようになった。岩倉大使一行の帰朝、征韓論の破裂、政府の分裂、西郷以下多くの薩人の帰国、参議|副島《そえじま》、後藤《ごとう》、板垣《いたがき》、江藤《えとう》らの辞表奉呈はその結果であった。上書してすこぶる政府を威嚇《いかく》するの意を含めたものもある。旗勢をさかんにし風靡《ふうび》するの徒が辞表を奉呈するものは続きに続いた。近衛兵《このえへい》はほとんど瓦解《がかい》し、三藩の兵のうちで動かないものは長州兵のみであった。明治七年一月には、ついに征韓派たる高知県士族|武市熊吉《たけちくまきち》以下八人のものの手によって東京|赤坂《あかさか》の途上に右大臣岩倉|具視《ともみ》を要撃し、その身を傷つくるまでに及んで行った。そればかりではない。この勢いの激するところは翌二月における佐賀県愛国党の暴動と化し、公然と反旗をひるがえす第一の烽火《のろし》が同地方に揚がった。やがてそれは元参議江藤新平らの位階|褫奪《ちだつ》となり、百三十六人の処刑ともなって、闇《やみ》の空を貫く光のように消えて行ったが、この内争の影響がどこまで及んで行くとも測り知られなかった。
 時には馬、時には徒歩の旅人姿で、半蔵が東京への道をたどった木曾街道の五月は、この騒ぎのうわさがややしずまって、さながら中央の舞台は大荒れに荒れた風雨のあとのようだと言わるるころである。

       四

[#ここから2字下げ]
「塩、まいて、おくれ。
 塩、まいて、おくれ。」
[#ここで字下げ終わり]
 木曾街道の終点とも言うべき板橋から、半蔵が巣鴨《すがも》、本郷《ほんごう》通りへと取って、やがて神田明神《かんだみょうじん》の横手にさしかかった時、まず彼の聞きつけたのもその子供らの声であった。町々へは祭りの季節が来ているころに、彼も東京にはいったのだ。
 時節がら、人気を引き立てようとする市民が意気込みのあらわれか、町の空に響く太鼓、軒並みに連なり続く祭礼の提灯《ちょうちん》なぞは思いのほかのにぎわいであった。時には肩に掛けた襷《たすき》の鈴を鳴らし、黄色い団扇《うちわ》を額のところに差して、後ろ鉢巻《はちまき》姿で俵天王《たわらてんのう》を押して行く子供の群れが彼の行く手をさえぎった。時には鼻の先の金色に光る獅子《しし》の後ろへ同じそろいの衣裳《いしょう》を着けた人たちが幾十人となくしたがって、手に手に扇を動かしながら町を通り過ぎる列が彼の行く手を埋《うず》めた。彼は右を見、左を見して、新規にかかった石造りの目鏡橋《めがねばし》を渡った。筋違見附《すじかいみつけ》ももうない。その辺は広小路《ひろこうじ》に変わって、柳原《やなぎわら》の土手につづく青々とした柳の色が往時を語り顔に彼の目に映った。この彼が落ち着く先は例の両国の十一屋でもなかった。両国広小路は変わらずにあっても、十一屋はなかった。そこでは彼の懇意にした隠居も亡《な》くなったあとで、年のちがったかみさんは旅人宿を畳《たた》み、浅草《あさくさ》の方に甲子飯《きのえねめし》の小料理屋を出しているとのことである。足のついでに、かねて世話になった多吉夫婦の住む本所相生町《ほんじょあいおいちょう》の家まで訪《たず》ねて行って見た。そこの家族はまた、浅草|左衛門町《さえもんちょう》の方へ引き移っている。そうこうするうちに日暮れに近かったので、浪花講《なにわこう》の看板を出した旅人宿を両国に見つけ、ひとまず彼はそこに草鞋《わらじ》の紐《ひも》を解いた。
 東京はまず無事。その考えに半蔵はやや心を安んじて、翌日はとりあえず、京都以来の平田|鉄胤《かねたね》老先生をその隠棲《いんせい》に訪《たず》ねた。彼が亡《な》き延胤《のぶたね》若先生の弔《くや》みを言い入れると、師もひどく力を落としていた。その日は尾州藩出身の田中|不二麿《ふじまろ》を文部省に訪ねることなぞの用事を済まし、上京三日目の午後にようやく彼は多吉夫婦が新しい住居《すまい》を左衛門橋の近くに見つけることができた。
 多吉、かみさんのお隅《すみ》、共に半蔵には久しぶりにあう人たちである。よくそれでも昔を忘れずに訪ねて来てくれたと夫婦は言って、早速荷物と共に両国の宿屋を引き揚げて来るよう勧めてくれたことは、何よりも彼をよろこばせた。
「お隅、青山さんは十年ぶりで出ていらしったとよ。」
 そういう多吉も変われば、お隅も変わった。以前半蔵が木曾下四宿《きそしもししゅく》総代の庄屋として江戸の道中奉行から呼び出されたおり、五か月も共に暮らして見たのもこの夫婦だ。その江戸を去る時、紺木綿《こんもめん》の切れの編みまぜてある二足の草鞋《わらじ》をわざわざ餞別《せんべつ》として彼に贈ってくれたのもこの夫婦だ。
 もとより今度の半蔵が上京はただの東京見物ではない。彼が田中不二麿を訪ねた用事というもほかではない。不二麿は尾州藩士の田中|寅三郎《とらさぶろう》と言ったころからの知り合いの間がらで、この人に彼は自己の志望を打ちあけ、その力添えを依頼した。旧領主|慶勝《よしかつ》公時代から半蔵父子とは縁故の深い尾州家と、名古屋藩の人々とは、なんと言っても彼にとって一番親しみが深いからであった。名古屋の藩黌《はんこう》明倫堂《めいりんどう》に学んだ人たちの中から、不二麿のような教育の方面に心を砕く人物を出したことも、彼には偶然とは思われない。今は文部教部両省合併で、不二麿も文部|大丞《だいじょう》の位置にあるから、この省務一切を管理する人に引き受けてもらったことは、半蔵としても心強い。もっとも、不二麿は民知の開発ということに重きを置き、欧米の教育事業を視察して帰ってからはアメリカ風の自由な教育法をこの国に採り入れようとしていて、すべてがまだ端緒についたばかりの試みの時代だとする考え方の人であったが。
 多吉はまた半蔵を見に来て言った。
「どうです、青山さん。江戸のころから見ると、町の様子も変わりましたろう。去年の春から、敵打《かたきう》ちの厳禁――そうです、敵打ちの厳禁でさ。政府も大きな仕事をやったもんさね。親|兄弟《きょうだい》の讐《あだ》を勝手に復《かえ》すようなことは、講釈師の昔話になってしまいました。それだけでも世の中は変わって来ましたね。でも、江戸に長く住み慣れたものから見ると、徳川さまは実にかあいそうです。徳川さまの御恩を忘れちゃならない、皆それを言ってます。お隅のやつなぞもね、葵《あおい》の御紋を見ると涙がこぼれるなんて、そう言ってますよ。」


 東京まで半蔵が動いて見ると、昔|気質《かたぎ》の多吉の家ではまだ行燈《あんどん》だが、近所ではすでにランプを使っているところがある。夕方になると、その明るい光が町へもれる。あそこでも、ここでもというふうに。燈火《ともしび》すらこんなに変わりつつあった。
 今さら、極東への道をあけるために進んで来た黒船の力が神戸《こうべ》大坂の開港開市を促した慶応三、四年度のことを引き合いに出すまでもなく、また、日本紀元二千五百余年来、未曾有《みぞう》の珍事であるとされたあの外国公使らが京都参内当時のことを引き合いに出すまでもなく、世界に向かってこの国を開いた影響はいよいよ日本人各自の生活にまであらわれて来るようになった。ことに、東京のようなところがそうだ。半蔵はそれを都会の人たちの風俗の好みにも、衣裳《いしょう》の色の移り変わりにもみて取ることができた。うす暗い行燈や蝋燭《ろうそく》をつけて夜を送る世界には、それによく映る衣裳の色もあるのに、その行燈や蝋燭にかわる明るいランプの時が来て見ると、今までうす暗いところで美しく見えたものも、もはや見られない。多吉の女房お隅はそういうことによく気のつく女で、近ごろの婦人が夜の席に着る衣裳の色の変わって来たことなぞを半蔵に言って見せ、世の中の流行が変わる前に、すでに燈火が変わって来ていると言って見せる。
 多吉夫婦は久しぶりで上京した半蔵をつかまえて、いろいろと東京の話をして聞かせるが、寄席《よせ》の芸人が口に上る都々逸《どどいつ》の類《たぐい》まで、英語まじりのものが流行して来たと言って半蔵を笑わせた。お隅は、一鵬斎芳藤《いちほうさいよしふじ》画《えが》くとした浮世絵なぞをそこへ取り出して来る。舶来と和物との道具くらべがそれぞれの人物になぞらえて、時代の相《すがた》を描き出してある。その時になって見ると、遠い昔に漢土の文物を採り入れようとした初めのころのこの国の社会もこんなであったろうかと疑わるるばかり。海を渡って来るものは皆文明開化と言われて、散切《ざんぎ》り頭をたたいて見ただけでも開化した音がすると唄《うた》われるほどの世の中に変わって来た。夏は素裸、褌《ふんどし》一つ、冬はどてら一枚で、客があると、どんな寒中でも丸裸になって、ホイ籠《かご》ホイ籠とかけ出す駕籠屋《かごや》なぞはもはや顔色がない。年じゅう素股《すまた》の魚屋から、裸商売の佃《つくだ》から来るあさり売りまで、異国の人に対しては、おのれらの風俗を赤面するかに見える。
 旅の身の半蔵は、用達《ようた》しのついで、あるいは同門の旧知なぞを訪《たず》ねるためあちこちと出歩くおりごとに、町々の深さにはいって見る機会を持った。東京は、どれほどの広さに伸びている大きな都会とも、ちょっと見当のつけられないことは、以前の彼が江戸出府のおりに得た最初の印象とそう変わりがないくらいであった。ここに住む老若男女の数も、彼にはおよそどれほどと言って見ることもできない。あるいは江戸時代よりはずっと減少していると言うものもあるし、あるいはこの新しい都の人口の増加は将来測り知りがたいものがあろうと言うものもある。元治年度の江戸を見た目で、東京を見ると、今は町々の角《かど》に自身番もなく、番太郎小屋もない。わずかに封建時代の形見のような木戸のみの残ったところもある。旧城郭の関門とも言うべき十五、六の見附《みつけ》、その外郭にめぐらしてあった十か所の関門も多く破壊された。彼は多吉夫婦と共に以前の本所相生町の方にいて、日比谷《ひびや》にある長州屋敷の打ち壊《こわ》しに出あったことを覚えているが、今度上京して見ると、その辺は一面の原だ。大小の武家屋敷の跡は桑園茶園に変わったところもある。彼が行く先に見つけるものは、かつて武家六分町人四分と言われたこの都会に大きな破壊の動いた跡を語って見せていないものはなかった。
 でも、東京は発展の最中だ。旧本陣問屋時代に宿場と街道の世話をした経験のある半蔵は、評判な銀座の方まで歩いて行って見て、そこに広げられた道路をおよそ何間《なんげん》と数え、めずらしい煉瓦《れんが》建築の並んだ二階建ての家々の窓と丸柱とがいずれも同じ意匠から成るのをながめた。そこは明治五年の大火以来、木造の建物を建てることを禁じられてからできた新市街で、最初はだれ一人《ひとり》その煉瓦の家屋にはいる市民もなく、もし住めば必ず青ぶくれにふくれて、死ぬと言いはやされたという話も残っている。言って見れば、そのころの銀座は香具師《やし》の巣である。二丁目の熊《くま》の相撲《すもう》、竹川町の犬の踊り、四丁目の角の貝細工、その他、砂書き、阿呆陀羅《あほだら》、活惚《かっぽれ》、軽業《かるわざ》なぞのいろいろな興行で東京見物の客を引きつけているところは、浅草六区のにぎわい
前へ 次へ
全49ページ中15ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング