《いただ》くこと、法のごとくにそれを数えること、残った数から陰陽を割り出して算木《さんぎ》をならべること、すべて型どおりに行なったあとで、易者はまず伊之助のためにその年の運勢を占ったが、卦《け》にあらわれたところは至極《しごく》良い。砕いて言えば、願う事の成就《じょうじゅ》するかたちである。商売をすれば当たるし、尋ね物は出るし、待ち人は来るし、縁談はまとまるという。ところが、半蔵の順番になって、易者はまた彼のためにも占ったが、好運な隣人のような卦は出なかった。
その時の半蔵を前に置いて、首をひねりながらの易者の挨拶《あいさつ》に、
「どうも、あなたが顔色の艶《つや》から言っても、こんなはずはないと思われるのですが。易のおもてで言いますると、この卦に当たった人は運勢いまだ開けずとあきらめて、年回りを畏《おそ》れ、随分身をつつしみ、時節の到来を待てとありますな。これはよいと申し上げたいが、どうもそう行きません。まあ、本年いっぱいはお動きにならない方がよろしい。」
とある。
半蔵はこの易者を笑えなかった。家に戻《もど》って旅のしたくを心がける間にも、彼は易者に言われたことから名状しがたい不安を引き出された。そういう彼が踏んで行くところは、歩けば歩くほど路《みち》も狭く細かったが、なお、先師没後の門人に残されたものは古い神社の方角にあると考えて、一歩たりともその方に近づく手がかりの与えらるることを念じた。神社に至るの道はまず階段を踏まねばならないと同じ道理で、彼とてもその手段を尽くさねばならなかった。これは万福寺の住職なぞが言うところの出家の道に似て、非なるものである。彼の願いは神から守られることばかりでなく、神を守りに行くことであった。しかし、この事はまだ家のものにも話さずにある。彼は見ず知らずの易者なぞに自分の運勢を占ってもらったことを悔いた。
五月中旬のはじめに彼は郷里を出発したが、親しい人たちの見送りも断わり、供も連れずであった。過ぐる年、彼が木曾十一宿総代の一人として江戸の道中奉行所から呼び出されたのは、あれは元治《げんじ》元年六月のことであったが、今度はあの時のような庄屋仲間の連れもない。新しい郡県の政治もまだようやく端緒についたばかりのような時で、木曾谷は三大区にわかたれ、大小の区長のほかに学区取り締まりなるものもでき、谷中村々の併合もそこここに行なわれていた。その後の山林事件の成り行きも心にかかって、鳥居峠まで行った時、彼はあの御嶽遙拝所《おんたけようはいじょ》の立つ峠の上の高い位置から木曾谷の方を振り返って見た。松本まで彼が動いた時は、ちょうどこの時勢に応ずる教育者のための講習会が筑摩《ちくま》県主催のもとに開かれているおりからであった。松本宮村町|瑞昌寺《ずいしょうじ》、それが師範学科の講習所にあてられたところで、いずれも相応な年配の人たちが県庁の募集に応じて集まって来ていた。半蔵が自分の村の敬義学校のために一人の訓導を見つけたのも、その松本であった。早速《さっそく》彼はその人を推薦することにした。今こそ馬籠でも万福寺を仮教場にあてているが、寺の付近に普請中の仮校舎も近く落成の運びであることなぞをもその人に告げた。小倉啓助がその人の名で、もと禰宜《ねぎ》の出身であるという。至極|直《ちょく》な人物である。このよさそうな教師を村に得ただけでも、彼は安心して東京の方に向かうことができるわけだ。もともと彼は年若な時分から独学の苦心を積み、山里に生まれて良師のないのを悲しみ、未熟な自分を育てようとしたばかりでなく、同時に無知な村の子供を教えることから出発したような男で、子弟教育のことにかけては人一倍の関心を抱《いだ》いているのである。
新時代の教育はこの半蔵の前にひらけつつあった。松本までやって来て見て、彼は一層その事を確かめた。それは全く在来の寺小屋式を改め、欧米の学風を取りいれようとしたもので、師範の講習もその趣意のもとに行なわれていた。その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。下等小学生徒の学齢は六歳に始まり九歳に終わる。その課程を八級にわかち、毎級六か月の修業と定め、初めて学に入るものは第八級生とするの順序である。教師の心|得《う》べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙《けいもう》ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類《たぐい》だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併《あわ》せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。ただ小倉啓助のような人を自分の村に得ただけにも満足しようとした。彼も心身の過労には苦しんでいた。しばらく休暇を与えられたいとの言葉をそこに残し、東京の新しい都を見うる日のことを想像して、やがて彼は塩尻《しおじり》、下諏訪《しもすわ》から追分《おいわけ》、軽井沢《かるいざわ》へと取り、遠く郷里の方まで続いて行っている同じ街道を踏んで碓氷峠《うすいとうげ》を下った。
半蔵が多くの望みをかけてこの旅に出たころは、あだかも前年十月に全国を震い動かした大臣参議連が大争いに引き続き戊辰《ぼしん》以来の政府内部に分裂の行なわれた後に当たる。場合によっては武力に訴えても朝鮮問題を解決しようとする西郷隆盛《さいごうたかもり》ら、欧米の大に屈して朝鮮の小を討《う》とうとするのは何事ぞとする岩倉大使および大久保利通《おおくぼとしみち》らの帰朝者仲間、かつては共に手を携えて徳川幕府打倒の運動に進み、共同の敵たる慶喜《よしのぶ》を倒し、新国家建設の大業に向かった人たちも、六年の後にはやかましい征韓論《せいかんろん》をめぐって、互いにその正反対をかつての朋友《ほうゆう》に見いだしたのであった。
明治御一新の理想と現実――この二つのものの複雑微妙な展《ひら》きは決してそう順調に成し就《と》げられて行ったものではなかった。その理想のみを見て現実を見ないものの多くはつまずいた。その現実のみを見て理想を見ないものの多くもまたつまずいた。ともあれ、千八百六十六年以来諸外国政府の代表者と日本国委員との間に取り結ばれた条約の改正も、朝鮮問題も、共にこの国発展の途上に横たわる難関であったことは争われない。岩倉大使が欧米歴訪の目的は、朝廷御新政以来の最初の使節として諸外国との修好にあったらしく、条約改正のことはその期するところでなかったとも言わるる。むしろ大使はその問題に触れないことを約して国を出発せられたともいう。その方針が遠い旅の途中で変更せられなかったら、この国のものはもっと早く大使一行の帰朝を迎え得たであろう。明治五年の五月には、大使らは条約改正の日本全権ででもあって、ついに前後三年にまたがる月日を海の外に費やされた。外国交渉の不結果、随員の不和、言語の困難――これを一行総員百七名からの従者留学生を挙《あ》げて国を離れたことに思い比べ、品川の沖には花火まで揚げて見送るもののあった出発当時の花やかさに思い比べると、おそらく旅の末はさびしく、しかも苦《にが》い経験であったろう。たとい大使らの欧米訪問が、近代国家の形態を視察することに役立ち、諸外国に対する新政府の位置を強固にすることに役立ち、率先奮励して開明の域に突進する海外留学の気象を誘導することにも役立ったとしても、その長い月日の間、岩倉、大久保、木戸らのごとき柱石たる人々が廃藩置県直後のこの国を留守にしたことは、容易ならぬ結果を招いた。郡県の政治は多くの人民の期待にそむき、高松、敦賀《つるが》、大分《おおいた》、名東《みょうとう》、北条《ほうじょう》、その他|福岡《ふくおか》、鳥取《とっとり》、島根諸県には新政をよろこばない土民が蜂起《ほうき》して、斬罪《ざんざい》、絞首、懲役等の刑に処せられた不幸なものが万をもって数うるほどの驚くべき多数に上ったのも、それらは皆大使一行が留守中にあらわれて来た現象であった。のみならず、時局の不安に刺激され、大使らの留守中を好機として、武力による改革を企つるものが生まれた。
いったい、薩長土《さっちょうと》三藩が朝廷に献じた兵は皆、東北戦争当時の輝かしい戦功の兵である。彼らが位置よりすれば、それらの兵をもって朝廷の基礎を固め、廃藩を断行し、長く徳川氏の旗本八万騎のごときものとなって、すこぶる優待さるるもののように考えた者が多かったとのことである。高知藩の谷干城《たにたてき》のような正直な人はそのことを言って、飛鳥尽きて良弓収まるのたとえを引き、彼ら戦功の兵も少々|厄介視《やっかいし》せらるる姿になって行ったと評した。当時軍隊統御の困難は後世から想像も及ばないほどで、時事を慨し、種々《さまざま》な議論を起こし、陸軍省に迫り、山県近衛都督《やまがたこのえととく》ですらそのためにしばしば辞職を申しいで、後には山県もその職を辞して西郷隆盛が都督になったほどであったとか。近衛兵の年限も定まって一般徴兵の制による事と決してからは、長州以外の二藩の兵は非常に不快の念を抱《いだ》いた。ことに徴兵主義に最も不満なものは桐野利秋《きりのとしあき》であったという。西の勝利者、ないし征服者の不平不満は、朝鮮問題を待つまでもなく、早くも東北戦争以後の社会に胚胎《はいたい》していた。
そこへ外国交渉のたどたどしさと、当時の朝鮮方面よりする東洋の不安だ。いわゆる壮兵主義を抱く豪傑連の中には、あわただしい世態風俗の移り変わりを見て、追い追いの文明開化の風の吹き回しから人心うたた浮薄に流れて来たとの慨《なげ》きを抱き、はなはだしきは楠公《なんこう》を権助《ごんすけ》に比するほどの偶像破壊者があらわれるに至ったと考え、かかる天下柔弱|軽佻《けいちょう》の気風を一変して、国勢の衰えを回復し諸外国の覬覦《きゆ》を絶たねばならないとの意見を持つものがあるようになった。古今内外の歴史を見渡して、外は外国に侮られ、内は敵愾《てきがい》の気を失い、人心は惰弱に風俗は日々|頽廃《たいはい》しつつあるような危殆《きたい》きわまる国家は、これを救うに武の道をもってするのほか、決して他の術がないとは、それらの人たちが抱いて来た社会改革の意見であった。それには文武共に今日改造の途上にあることを一応考慮しないではないが、ひとまず文教をあと回しにする、この際は断然武政を布《し》いて国家の独立を全《まっと》うするためには外国と一戦するの覚悟を取る、それが国を興すの早道だというのである。そして事は早いがいい、今のうちにこの大計を定め国家の進路を改めるがいい、これを決行する時機は大使帰朝前にあるというのである。なぜかなら、大使帰朝の後はおのずから大使一行の意見があって、必ずこの反対に出《い》づるであろうと予測せられたからであった。その武政を立つる方案によると、全国の租税を三分して、その二分を陸海軍に費やす事、すでに士族の常職を解いた者は従前に引き戻《もど》す事、全国の士族を配してことごとく六管鎮台の直轄とする事、丁年以上四十五歳までの男子は残らず常備予備の両軍に編成する事、平民たりとも武事を好む者はその才芸器量に応じすべて士族となす事、全国男子の風教はいわゆる武士道をもって陶冶《とうや》する事、左右大臣中の一人《ひとり》は必ず大将をもってこれに任じ親しく陛下の命を受けて海陸の大権を収める事、これを約《つづ》めて言えば武政をもって全国を統一する事である。この意見を懐《ふところ》にして西郷に迫るものがあったが、隆盛は容易に動かなかった。彼は大使出発の際に大臣参議のおのおのが誓った言葉をそこへ持ち出して
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