法を興隆した聖徳太子とは、厩戸皇子の諡号《しごう》にほかならない。その言葉に、神道はわが国の根本である、儒仏はその枝葉である、根本|昌《さかん》なる時は枝葉も従って繁茂する、故に根本をゆるかせにしてはならないぞよとある。これだ。この根本に帰入するのが、いくらかでも仏法の守られる秘訣《ひけつ》だと松雲は考えた。ところがこれには反対があって、仏徒が神道を基とするのは狭い偏した説だとの意見が出た。その声は隣村同宗の僧侶仲間からも聞こえ、隣国美濃にある寺々からも聞こえて来た。そしてしきりにその片手落ちを攻撃する手紙が松雲のもとへ舞い込んで来たのは十通や十三、四通にとどまらない。そのたびに松雲は自己の立ち場を弁解する意見書を作って置いて、それを同宗の人々に示した。かく根本に帰入するのは、すなわち枝葉を繁茂せしめる一つではなかろうか。その根本が堅固であっても、霜雪時に従って葉の枯れ落ちることはある。枝の朽ちることもある。また、新芽を生ずるがある。新しい枝を延ばすもある。皆、天然自然のしからしめるところであって、その根本たりとも衰えることはないと言えない。大根《おおね》の枯れさえなければ、また蔓延《まんえん》の時もあろう。この大根を切断する時は、枝葉もまた従って朽ちることは言葉を待たない。根本を根本とし、枝葉を枝葉とするに、どうしてこれが片手落ちであろう。そもそも仏法がこの国土に弘まったのは欽明帝《きんめいてい》十三年仏僧入朝の時であって、以来、大寺の諸国に充満し、王公貴人の信仰したことは言葉に尽くせない。過去数百年間、仏徒の横肆《おうし》もまた言葉には尽くせない。その徒も一様ではない。よいものもあれば、害のあったものもある。一得あれば一失を生ずる。ほまれそしりはそこから起こって来るが、仏徒たりとも神国の神民である以上、神孫の義務を尽くして根本を保全しなければならぬ。その義務を尽くすために神道教導職の一端に加わるのは、だれがこれを片手落ちと言えよう。今や御一新と言い、社会の大変革と言って、自分らごときはあだかも旧習を脱せざるもののように見なさるるのもやむを得ない。ただ仏祖の旧恩を守って、道を道とするに、どうして片手落ちの異見を受くべきであろうぞ。朝旨に戻《もと》らず、三条の教憲を確《しか》と踏まえて、正を行ない、邪をしりぞけ、権衡《けんこう》の狂わないところに心底を落着せしめるなら、しいて天理に戻るということもあるまい。自分らごときは他人の異見を待たずに、不羈《ふき》独立して大和魂《やまとだましい》を堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念《けねん》する。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理に違《たご》うことのあるべきはずがない。自分らには現世《げんせ》を安穏にする欲情もなければ、後生《ごせ》に善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。
 禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態が革《あらた》まるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月も蔵《かく》れ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時には隠れ、世の治まる時には道を行なうというふうに考えた。というのは、遠い昔にあの葦《あし》を折る江上の客となって遠く西より東方に渡って来た祖師の遺訓というものがあるからであった。大意(理想)は人おのおのにある、しかもむなしくこれ徒労の心でないものはないと教えてあるのだ。さてこそ、明治の御一新も、この人には必ずしも驚くべきことではなかった。たといその態度をあまりに高踏であるとし、他から歯がゆいように言われても、松雲としては日常刻々の修道に思いを潜め、遠く長い目で世界の変革に対するの一手があるのみであった。


 半蔵と伊之助の二人《ふたり》が連れだって万福寺を訪《たず》ねた時は、ちょうど村の髪結い直次が和尚の頭を剃《そ》りに来ていて、間もなく剃り終わるであろうというところへ行き合わせた。髪長くして僧貌《そうぼう》醜しと日ごろ言っている松雲のことだから、剃髪《ていはつ》も怠らない。そこで半蔵らは勝手を知った寺の囲炉裏ばたに回って、直次が剃刀《かみそり》をしまうまで待った。
 十二、三年も寺に暮らして和尚の身のまわりの世話をしていた人が亡《な》くなってからは、なんとなく広い囲炉裏ばたもさびしかった。生まれは三留野《みどの》で、お島というのがその女の名だった。宿役人一同承知の上で寺にいれたくらいだから、その人とて肩身の狭かろうはずもなかったが、それでも周囲との不調和を思うかして、生前は本堂へも出なかった。世をいといながら三時の勤行《ごんぎょう》を怠らない和尚を助けて、お島は檀家《だんか》のものの受けもよく、台所から襷《たすき》をはずして来てはその囲炉裏で茶をもてなしてくれたことを半蔵らも覚えている。亡《な》い人の数に入ったその女のために、和尚が形見の品を旧本陣や伏見屋にまで配ったことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。
 髪結い直次のような老練な職人の腕にも、和尚の頭は剃りにくいかして、半蔵らはかなり待たされた。それを待つ間、彼は伊之助と共にその囲炉裏ばたを離れて、和尚の造った庭を歩き回りに出た。やがて十三、四ばかりになる歯の黄色い徒弟僧の案内で、半蔵は和尚の方丈に導かれた。
「これは。これは。」
 相変わらずの調子で半蔵らを迎えるのは松雲だ。客に親疎を問わず、好悪《こうお》を選ばずとはこの人のことだ。ことに頭は剃りたてで、僧貌も一層柔和に見える。本堂の一部を仮の教場にあててから、半蔵を助けて村の子供たちを教えているのもこの和尚だが、そういう仕事の上でかつていやな顔を彼に見せたこともない。しばらく半蔵はその日の来意を告げることを躊躇《ちゅうちょ》した。というのは、対坐《たいざ》する和尚の沈着な様子が容易にそれを切り出させないからであった。それに、彼はこの人が仏弟子《ぶつでし》ながら氏神をも粗末にしないで毎月|朔日《ついたち》十五日には荒町《あらまち》にある村社への参詣《さんけい》を怠らないことを知っていたし、とても憎むことのできないような善良な感じのする心の持ち主であることをも知っていたからで。
 しかし、半蔵の思い立って来たことは種々《さまざま》な情実やこれまでの行きがかりにのみ拘泥《こうでい》すべきことではなかった。彼は伊之助と共に、筑摩《ちくま》県からの布告の趣意を和尚に告げ、青山小竹両家の改典のことを断わった。なお、これまで青山の家では忌日供物の料として年々|斎米《ときまい》二斗ずつを寺に納め来たったもので、それもこの際、廃止すべきところであるが、旧義を存して明年からは米一斗ずつを贈るとも付け添えた。この改典は廃仏を意味する。これはさすがの松雲をも驚かした。なぜかなら、この万福寺を建立《こんりゅう》したそもそもの人は、そういう半蔵が祖先の青山|道斎《どうさい》だからである。また、かつて松雲がまだ僧|智現《ちげん》と言ったころから一方ならぬ世話になり、六年|行脚《あんぎゃ》の旅の途中で京都に煩《わずら》った時にも着物や路銀を送ってもらったことがあり、本堂の屋根の葺《ふ》き替えから大太鼓の寄付まで何くれとめんどうを見てくれたことのあるのも、伊之助の養父金兵衛だからである。
「いや、御趣意のほどはわかりました。よくわかりました。わたしは他の僧家とも違いまして、神道を基とするのが自分の本意ですから、すこしもこれに異存はありません。これと申すも皆、前世の悪報です。やむを得ないことです。まあ、お話はお話として、お茶を一つ差し上げたい。」
 そう言いながら、松雲は座を立った。ぐらぐら煮立った鉄瓶《てつびん》のふたを取って水をさすことも、煎茶茶碗《せんちゃぢゃわん》なぞをそこへ取り出すことも、寺で製した古茶を入れて慇懃《いんぎん》に客をもてなすことも、和尚はそれを細心な注意でやった。娑婆《しゃば》に生涯《しょうがい》を寄せる和尚はその方丈を幻の住居《すまい》ともしているので、必ずしもひとりをのみ楽しもうとばかりしている人ではない。でも、冷たく無関心になったこの世の人の心をどうかして揺り起こしたいと考えるような平田門人なぞの気分とはあまりにも掛け離れていた。
「どれ、位牌堂《いはいどう》の方へ御案内しましょう。おそかれ早かれ、こういう日の来ることはわたしも思っておりました。神葬祭のことは、あれは和宮《かずのみや》さまが御通行のころからの問題ですからな。」
 という和尚は珠数《じゅず》を手にしながら、先に立って、廊下づたいに本堂の裏手へと半蔵らを導いた。霊膳《れいぜん》、茶、香花《こうげ》、それに燭台《しょくだい》のそなえにも和尚の注意の行き届いた薄暗い部屋《へや》がそこにあった。
 青山家代々の位牌は皆そこに集まっている。恵那山《えなさん》のふもとに馬籠の村を開拓したり、万福寺を建立したりしたという青山の先祖は、その生涯にふさわしい万福寺殿昌屋常久禅定門《まんぷくじでんしょうおくじょうきゅうぜんじょうもん》の戒名で、位牌堂の中央に高く光っているのも目につく。黒くうるしを塗った大小の古い位牌には、丸に三つ引きの定紋を配したのがあり、あるいはそれの省いたのもある。その面《おもて》に刻した戒名にも、皆それぞれの性格がある。これは僧侶の賦与したものであるが、一面には故人らが人となりをも語っている。鉄巌宗寿庵主《てつがんそうじゅあんしゅ》のいかめしいのもあれば、黙翁宗樹居士《もくおうそうじゅこじ》のやさしげなのもある。その中にまじって、明真慈徳居士《みょうしんじとくこじ》、行年七十二歳とあるは半蔵の父だ。清心妙浄大姉《せいしんみょうじょうだいし》、行年三十二歳とは、それが彼の実母だ。彼は伊之助と共に、それらの位牌の並んでいる前を往《い》ったり来たりした。
 松雲は言った。
「時に、青山さん、わたしは折り入ってあなたにお願いがあります。御先祖の万福寺殿、それに徳翁了寿居士《とくおうりょうじゅこじ》御夫婦――お一人《ひとり》は万福寺の開基、お一人は中興の開基でもありますから、この二本の位牌だけはぜひとも寺にお残しを願いたい。」
 これには半蔵もうなずいた。

       三

 明治七年は半蔵が松本から東京へかけての旅を思い立った年である。いよいよ継母おまんも例の生家《さと》へ世話しようとしたお粂《くめ》の縁談を断念し、残念ながら結納品《ゆいのうひん》をお返し申すとの手紙を添え、染め物も人に持たせてやって、稲葉家との交渉を打ち切った。お粂はもとより、文字どおりの復活を期待さるる身だ。彼が暮田正香の言葉なぞを娘の前に持ち出して見せ、多くの国学諸先輩が求めようとしたのも「再び生きる」ということだと語り聞かせた時、お粂は目にいっぱい涙をためながら父の励ましに耳を傾けるほどで、一日は一日よりその気力を回復して来ている。妻のお民は、と見ると、泣いたあとでもすぐ心の空の晴れるようなのがこの人の持ち前だ。あれほど不幸な娘の出来事からも、母としてのお民は父としての彼が受けたほどの深い打撃を受けていない。それに長男の宗太も十七歳の春を迎えていて、もはやこれも子供ではない。今は留守中のことを家のものに頼んで置いて、自己の進路を開拓するために、しばらく郷里を離れてもいい時が来たように彼には思われた。
 半蔵が旅に出る前のこと。ある易者が来て馬籠《まごめ》の旅籠屋《はたごや》に逗留《とうりゅう》していた。めずらしく半蔵は隣家の伊之助にそそのかされて、その旅やつれのした易者を見に行った。古い袋から筮竹《ぜいちく》を取り出して押し頂
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