の言葉にかえようとした。
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「尊翰《そんかん》拝見|仕《つかまつ》り候。小春の節に御座候ところ、御渾家《ごこんか》御|揃《そろ》い遊ばされ、ますます御機嫌《ごきげん》よく渡らせられ、恭賀たてまつり候。降《くだ》って弊宅異儀なく罷《まか》りあり候間、憚《はばか》りながら御放念下されたく候。陳《のぶ》れば、愚娘儀につき、先ごろ峠村の平兵衛参上いたさせ候ところ、重々ありがたき御厚情のほど、同人よりうけたまわり、まことにもって申すべき謝辞も御座なき次第、小生ら夫妻は申すに及ばず、老母ならびに近親のものまでも御懇情のほど数度説諭に及び候ところ、当人においても段々御慈悲をもって万端御配慮なし下され候儀、浅からず存じ入り、参上を否み候儀は毛頭これなく候えども、不了簡《ふりょうけん》の挙動、自業自悔《じごうじかい》、親類のほかは町内にても他人への面会は憚り多く、今もって隣家へ浴湯にも至り申さざるほどに御座候。右の次第、そのもとへ参り候儀、おおかた恥ずかしく、御家族様方を初め御親類衆様方へ対し奉り、女心の慚愧《ざんき》耐えがたき儀につき、なにぶんにも参上つかまつりかね候よし申しいで候。小生らにおいても御厚意を奉体つかまつらざる場合に落ち行き、苦慮|一方《ひとかた》ならず、この段|御宥恕《ごゆうじょ》なし下されたく、尊君様より皆々様へ厚く御詫び申し上げ候よう幾重《いくえ》にも願いたてまつり候。右貴答早速申し上ぐべきところ、愚娘説諭方数度に及び、存外の遅延、かさねがさねの多罪、ひたすら御海恕下されたく候。尚々《なおなお》、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」
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二
とうとう、半蔵もこんな風雨をしのいで一生の旅の峠にさしかかった。人が四十三歳にもなれば、この世に経験することの多くがあこがれることと失望することとで満たされているのを知らないものもまれである。平田門人としての彼は、復古の夢の成りがたさにも、同門の人たちの蹉跌《つまずき》にも、つくづくそれを知って来た。ただほんとうに心配する人たちのみがこの世に残して行くような誠実の感じられるものがあって、それを何ものにも換えがたく思う心から、彼のような人間でも行き倒れずにどうやらその年まで諸先輩の足跡をたどりつづけて来た。過去を振り返ると、彼が父吉左衛門の許しを得て、最初の江戸の旅に平田|鉄胤《かねたね》の門をたたき、誓詞、酒魚料、それに扇子《せんす》壱箱を持参し、平田門人の台帳に彼の名をも書き入れてもらったのは安政三年の昔であって、浅い師弟の契りとも彼には思われなかった。その師にすら、「ここまではお前たちを案内して来たが、ここから先の旅はお前たち各自に思い思いの道をたどれ」と言わるるような時節が到来した。これは全く自然の暇乞《いとまご》いで、その年、明治六年には師ももはや七十二歳の老齢を迎えられたからである。この心ぼそさに加えて、前年の正月には彼は平田|延胤《のぶたね》若先生の死をも見送った。平田派中心の人物として一門の人たちから前途に多くの望みをかけられたあの延胤が四十五歳で没したことは、なんと言っても国学者仲間にとっての大きな損失である。追い追いの冷たい風は半蔵の身にもしみて来た。そこへ彼の娘まで深傷《ふかで》を負った。感じられはしても、説き明かせないこの世の深さ。あの稲妻《いなずま》のひらめきさえもが、時としては人に徹する。生きることのはかなさ、苦しさ、あるいは恐ろしさが人に徹するのは、こういう時かと疑われるほど、彼も取り乱した日を送って来た。この彼が過去を清算し、もっと彼自身を新しくしたいとの願いから、ようやく起こし得た心というは、ほかでもない。それは平田篤胤没後の門人として、どこまでも国学者諸先輩を見失うまいとする心であった。
半蔵も動いて来た。時にはこのまま村夫子《そんふうし》の身に甘んじて無学な百姓の子供たちを教えたいと思い、時にはこんな山の中に引き込んでいて旧《ふる》い宿場の運命をのみ見まもるべき世の中ではないと思い、是非胸中にたたかって、精神の動揺はやまない。多くの悲哀《かなしみ》が神に仕える人を起こすように、この世にはまだ古《いにしえ》をあらわす道が残っていると感づくのも、その彼であった。復古につまずいた平田篤胤没後の門人らがいずれも言い合わせたように古い神社へとこころざし、そこに進路を開拓しようとしていることも、いわれのあることのように彼には考えられて来た。松尾の大宮司となった師岡正胤《もろおかまさたね》、賀茂の少宮司となった暮田正香《くれたまさか》なぞを引き合いに出すまでもなく、伊那の谷にある同門の人たちの中にもその方向を取ろうとする有志のものはすくなくない。
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山窓《やままど》にねざめの夜はの明けやらで風に吹かるる雨の音かな
祖《おや》の祖《おや》のそのいにしへは神なれば人は神にぞ斎《いつ》くべらなる
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この述懐の歌は、半蔵が斎《いつき》の道を踏みたいと思い立つ心から生まれた。すくなくも、その心を起こすことは、先師の思《おぼ》し召しにもかなうことであろうと考えられたからで。
新しい路《みち》をひらく手始めに、まず半蔵は自家の祭葬のことから改めてかかろうと思い立った。元来神葬祭のことは中世否定の気運と共に生まれた復古運動のあらわれの一つで、最も早くその根本問題に目を着け、またその許しを公《おおやけ》に得たものは、士籍にあっては豊後岡藩《ぶんごおかはん》の小川|弥右衛門《やえもん》、地下人《じげにん》(平民)にあっては伊那小野村の庄屋倉沢|義髄《よしゆき》をはじめとする。ことに、義髄は一日も人身の大礼を仏門に委《ゆだ》ねるの不可なるを唱え、中世以来宗門仏葬等のことを菩提寺《ぼだいじ》任せにしているのはこの国の風俗として恐れ入るとなし、信州全国|曹洞宗《そうとうしゅう》四百三か寺に対抗して宗門|人別帳《にんべつちょう》離脱の運動を開始したのは慶応元年のころに当たる。義髄はそのために庄屋の職を辞し、京都寺社奉行所と飯田千村役所との間を往復し、初志を貫徹するために前後四年を費やして、その資産を蕩尽《とうじん》してもなお屈しないほどの熱心さであった。徳川幕府より僧侶《そうりょ》に与えた宗門権の破棄と、神葬復礼との奥には、こんな人の動きがある。しかし世の中は変わった。その年、明治六年の十一月には、筑摩《ちくま》県|権令《ごんれい》永山盛輝《ながやまもりてる》の名で、神葬仏葬共に人民の信仰に任せて聞き届ける旨《むね》はかねて触れ置いたとおりであるが、今後はその願い出にも及ばない、各自の望み次第、葬儀改典勝手たるべしの布告が出るほどの時節が到来した。木曾福島取締所の意をうけて三大区の区長らからそれを人民に通達するほどの世の中になって来た。これは半蔵にとっても見のがせない機会である。彼は改典の事を共にするため、何かにつけての日ごろの相談相手なる隣家の主人、伊之助を誘った。
菩提寺任せにしてあった父祖の位牌《いはい》を持ち帰る。その塵埃《ほこり》を払って家に迎え入れる。墓地の掃除も寺任せにしないで家のものの手でそれをする。今の寺院の境内はもと青山家の寄付にかかる土地であるから、神葬の儀式でも行なう必要のあるおりは当分寺の広庭を借り用いる。まったく神仏を混淆《こんこう》してしまったような、いかがわしい仏像なぞの家にあるものはこの際焼き捨てる――この半蔵の考えが伊之助を驚かした。しかし、伊之助は平素の慎み深さにも似ず、これは自分らの子供たちを教育する上からもゆるがせにすべき問題でないと言い、これまで親しいものの死後をあまり人任せにし過ぎたと言い、旧宿役人時代から彼は彼なりに在家《ざいけ》と寺方との関係を考えて来たとも言って、もし旧本陣でこの事を断行するなら、伏見屋でもこれを機会に祭葬の礼を改めて、古式に復したいと同意した。
半蔵は言って見た。
「やっぱり伊之助さんは、わたしのよい友だちだ。」
今は彼も意を決した。この上は、伊之助と連れだって、今度の布告の趣意を万福寺住職に告げ断わるため、馬籠の北側の位置にある田圃《たんぼ》の間の寺道を踏むばかりになった。
万福寺の松雲|和尚《おしょう》はもとの名を智現《ちげん》という。行脚《あんぎゃ》六年の修業の旅を終わり、京都本山の許しを得て名も松雲と改め、新住職として馬籠の寺に落ちついたのは、もはや足掛け二十年の前に当たる。
あれは安政元年のことで、半蔵が父吉左衛門も、伊之助が養父金兵衛も、共にまだ現役の宿役人としてこの駅路一切の世話に任じていたころだ。旧暦二月末の雨の来る日、美濃路《みのじ》よりする松雲の一行が中津川宗泉寺老和尚の付き添いで、国境《くにざかい》の十曲峠《じっきょくとうげ》を上って来た時、父の名代として百姓総代らと共に峠の上の新茶屋まで新住職の一行を出迎えたのもまだ若いころの半蔵だった。旅姿の松雲はそのまま山門をくぐらずに、まず本陣の玄関に着き、半蔵が家の一室で法衣|装束《しょうぞく》に着かえ、それから乗り物、先箱《さきばこ》、台傘《だいがさ》で万福寺にはいったのであった。
二十年の月日は半蔵を変えたばかりでなく、松雲をも変え、その周囲をも変えた。和尚もすでに五十の坂を越した。過ぐる月日の間、どんなさかんな行列が木曾街道に続こうと、どんな血眼《ちまなこ》になった人たちが馬籠峠の上を往復しようと、日々の雲が変わるか、あるいは陰陽の移りかわるかぐらいにながめ暮らして、ただただ古い方丈の壁にかかる達磨《だるま》の画像を友として来たような人が松雲だ。毎朝早くの洗面さえもが、この人には道を修めることで、法鼓《ほうこ》、諷経《ふうぎん》等の朝課の勤めも、払暁《ふつぎょう》に自ら鐘楼に上って大鐘をつき鳴らすことも、その日その日をみたして行こうとする修道の心からであった。一日成さなければ一日食うまい、とは百丈禅師のような古大徳がこの人に教えた言葉だ。仏餉《ぶっしょう》、献鉢《けんばち》、献燈、献花、位牌堂《いはいどう》の回向《えこう》、大般若《だいはんにゃ》の修行、徒弟僧の養成、墓|掃除《そうじ》、皆そのとおり、長い経験から、ずいぶんこまかいところまでこの人も気を配って来た。たとえば、毎年正月の八日には馬籠仲町にある檀家《だんか》の姉様《あねさま》たちが仏参を兼ねての年玉に来る、その時寺では十人あまりへ胡桃餅《くるみもち》を出す、早朝から風呂《ふろ》を焚《た》く、あとで出す茶漬《ちゃづ》けの菜《さい》には煮豆に冬菜のひたしぐらいでよろしの類《たぐい》だ。寺は精舎《しょうじゃ》とも、清浄地とも言わるるところから思いついて、明治二年のころよりぽつぽつ万福寺の裏山を庭に取り入れ、そこに石を運んだり、躑躅《つつじ》を植えたりして、本堂や客殿からのながめをよくしたのもまた和尚だ。奥山の方から導いた清水《しみず》がこの庭に落ちる音は、一層寺の境内を街道筋の混雑から遠くした。
こんな静かな禅僧の生活も、よく見れば動いていないではない。大は将軍家、諸侯から、小は本陣、問屋《といや》、庄屋、組頭《くみがしら》の末に至るまでことごとく廃された中で、僧侶《そうりょ》のみ従前どおりであるのは、むしろ不思議なくらいの時である。御一新以前からやかましい廃仏の声と共に、神道葬祭が復興することとなると、寺院は徳川幕府の初期以来保証されて来た戸籍公証の権利を侵さるるのみならず、宗門人別離脱者の増加は寺院の死活問題にも関する。これには各宗の僧籍に身を置くものはもとより、全国何百万からの寺院に寄宿するものまで、いずれも皆強い衝動を受けた。この趨勢《すうせい》に鑑《かんが》み、中年から皇国古典の道を聞いて、大いに松雲も省みるところがあった。和尚がことに心をひかれたのは、人皇三十一代用明天皇第二の皇子、すなわち厩戸皇子《うまやどのおうじ》ののこした言葉と言い伝えられるものであった。この国|未曾有《みぞう》の仏
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