どもが集まる場所で、町内の出来事はその隠れた位置で手に取るようにわかった。
うわさは実にとりどりであった。あるものは旧本陣の娘のことをその夜のうちに知ったと言い、あるものは翌朝になって知ったと言う。寄るとさわると、そこへ水くみに集まるもののうわさはお粂のことで持ち切った。あの娘が絶命するまでに至らなかったのは、全く家のものが早く見つけて手当てのよかったためであるが、何しろ重態で、助かる生命《いのち》であるかどうかはだれも知らない。変事を聞いて夜中に駕籠《かご》でかけつけて来た山口村の医者|杏庵《きょうあん》老人ですら、それは知らないとのこと。この山里に住むものの中には、青山の家の昔を知っていて、先代吉左衛門の祖父に当たる七郎兵衛のことを引き合いに出し、その人は二、三の同僚と共に木曾川へ魚を捕《と》りに行って、隣村山口の八重島《やえじま》、字龍《あざたつ》というところで、ついに河《かわ》の水におぼれたことを言って、今度の悲劇もそれを何かの祟《たた》りに結びつけるものもあった。
門外のもののうわさがこんなに娘お粂の身に集まったのも不思議はない。青山の家のものにすら、お粂が企てた自害の謎《なぞ》は解けなかった。ともあれ、この出来事があってからの四、五日というものは、家のものにはそれが四十日にも五十日にも当たった。その間、お粂が生死の境をさまよっていて、飲食するものも喉《のど》に下りかねるからであった。
にわかに半蔵も年取った。一晩の心配は彼を十年も老《ふ》けさした。父としての彼がいろいろな人の見舞いを受けるたびに答えうることは、このとおり自分はまだ取り乱していると言うのほかはなかったのである。その彼が言うことには、この際、自分はまだ何もよく考えられない。しかし、治療のかいあって、追い追いと娘も快い方に向かって来ているから、どうやら一命を取りとめそうに見える。娘のことから皆にこんな心配をかけて済まなかった。これを機会に、自分としても過去を清算し、もっと新しい生涯《しょうがい》にはいりたいと思い立つようになった。そんなふうに彼は見舞いの人々に言って見せた。時には彼は村の子供たちを教えることから帰って来て、袴《はかま》も着けたままお粂の様子を見に行くことがある。母屋《もや》の奥座敷には屏風《びょうぶ》をかこい、土蔵の方から移された娘のからだがそこに安静にさせてある。娘はまだ顔も腫《は》れ、短刀で刺した喉の傷口に巻いてある白い布も目について、見るからに胸もふさがるばかり。変わり果てたこの娘の相貌《そうぼう》には、お民が驚きも一通りではない。彼女は悲しがって、娘を助けたさの母の一心から、裏の稲荷《いなり》へお百度なぞを踏みはじめている。
木曾谷でも最も古い家族の一つと言わるる青山のような家に生まれながら、しかもはなやかな結婚の日を前に控えて、どうしてお粂がそんな了簡《りょうけん》違いをしたろうということは、彼女の周囲にある親しい人たちの間にもいろいろと問題になった。寿平次の妻お里は妻籠《つまご》から、半蔵が旧《ふる》い弟子《でし》の勝重《かつしげ》は落合《おちあい》から、いずれも驚き顔に半蔵のところへ見舞いに来て、隣家の主人伊之助と落ち合った時にも、その話が出る。娘心に、この世をはかなんだものだろうか、と言って見るのは勝重だ。もっと学問の道にでも進みたかったものか、と言って見るのはお里だ。十八やそこいらのうら若さで、そうはっきりした考えから動いたことでもないのであろう、おそらく当人もそこまで行くつもりはなかったのであろう、それにしてもだれかあの利発な娘を導く良い案内者をほしかった、と言って見るのは伊之助だ。いや、たまたまこれはお粂の生娘《きむすめ》であった証拠で、おとこおんなの契りを一大事のように思い込み、その一生に一度の晴れの儀式の前に目がくらんだものであろう、と言って見るものもある。お粂の平常を考えても、あの生先《おいさき》籠《こも》る望み多いからだで、そんな悪い鬼にさいなまれていようとは思いがけなかったと言って、感じやすいもののみが知るようなさみしいこころのありさまにまでお粂の行為《おこない》を持って行って見るものもある。
その時になると、半蔵は伊那南殿村の稲葉家へあててありのままにこの出来事を書き送り、結婚の約束を解いてもらうよりほかに娘を救う方法も見当たらなかった。しかし、すでに結納《ゆいのう》の品を取りかわし、箪笥《たんす》、長持から、針箱の類《たぐい》まで取りそろえてお粂を待っていてくれるという先方の厚意に対しても、いったん親として約諾したことを破るという手紙は容易に書けなかった。せめて仲人《なこうど》のもとまでと思いながら、かねて吉辰《きっしん》良日として申し合わせのあった日に当たる九月二十二日が来ても、彼にはその手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。
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「拝啓。冷気相増し候《そうろう》ところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。陳《のぶ》れば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速《さっそく》見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申し諭《さと》し、医療を加え候ところ、四、五日は飲食も喉《のど》に下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養の効《かい》ありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事も障《さわ》りなく、疵《きず》は日に増し癒《い》え候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対しなんとも申し上げようも御座なく候。右につき、御契約の儀は縁なきこととおあきらめ下され、お解き下され候よう、尊公様より厚く御詫《おんわ》びを願いたく候。気随の娘、首切って御渡し申すべきか、いかようとも謝罪の儀は貴命に従い申すべく候。かねて御引き取りの御約束にこれあり候ことゆえ、定めて諸事御|支度《したく》あらせられ候ことと推察たてまつり、早速にもこの儀、人をもって申し上ぐべきはずに候えども、種々取り込みまかりあり、不本意ながらも今日まで延引相成り申し候。縁談の儀は旧好を続《つ》ぎ、親《しん》を厚うし候ことにて、双方よかれと存じ候事に候えども、当人種々娘ごころを案じめぐらせし上にもこれあり候か、了簡《りょうけん》違いつかまつり、いかんとも両親の心底にも任せがたく候間、この段厚く御海恕《ごかいじょ》なし下され候よう願い上げたてまつり候。遠からず人をもって御詫び申し上ぐべく候えども、まずまず尊公様までこの段申し上げ候。何卒《なにとぞ》、南殿村へはくれぐれも厚く御詫び下さるよう、小生よりは申し上ぐべき言葉も御座なく候。まずは右、御願いまで、かくのごとくに御座候。
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よかれとて契りしことも今ははたうらみらるべきはしとなりにき
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尚々《なおなお》、老母はじめ、家内のものどもよりも、本文の次第厚く御詫び申し上げ候よう、申しいで候。」
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ようやく十月の二十三日に、半蔵は仲人あてのこの書きにくい手紙を書いた。書いて見ると、最初からこの縁談を取りまとめるためにすくなからず骨折ってくれた継母おまんのことがそこへ浮かんで来る。目上のものの言うことは実に絶対で、親子たりとも主従の関係に近く、ほとほと個人の自由の認めらるべくもない封建道徳の世の中に鍛えられて来たおまんのような婦人が、はたしてほんとうに不幸な孫娘を許すか、どうかも彼には気づかわれる。
「お民。」
半蔵は妻を呼んで、当時にはまだ目新しい一銭の郵便切手を二枚|貼《は》って出す前に、この手紙を彼女にも読み聞かせた。
「あなたが、もっと自分の娘のことを考えてくれたら、こんなことにはならなかった。」
お民はそれを言い出しながら、夫のそばにいてすすり泣いた。
これには半蔵も返す言葉がない。山林事件の当時、彼は木曾山を失おうとする地方人民のために日夜の奔走を続けていて、その方に心を奪われ、ほとんど家をも妻子をも顧みるいとまがなかった。彼は義理堅い継母からも、すすり泣く妻からも、傷ついた娘からも、自分で自分のしたことのつらい復讐《ふくしゅう》を受けねばならなかった。
ある日、彼は奥座敷に娘を見に行った。お粂が顔の腫《は》れも次第に引いて来たころだ。彼はうれしさのあまり、そこに眠っている娘の額や頬《ほお》に自分の掌《てのひら》を当てたりなぞして、めっきり回復したそのようすを見直した。その時、お粂は例の大きな黒目がちな目を見開きながら、
「お父《とっ》さん、申しわけがありません。わたしが悪うございました。もう一度――もう一度わたしも生まれかわったつもりになってやりますから、今度のことは堪忍《かんにん》してください。」
「おゝ、お粂もそこへ気がついたか。」
と彼は言って見せた。
十一月にはいって、峠のお頭《かしら》平兵衛は伊那南殿村への訪問先から引き返して来た。その用向きは、半蔵の意をうけて稲葉家の人々にあい、ありのままにお粂の様子を伝え、縁談解約のことを申し入れるためであった。平兵衛が先方の返事を持ち帰って見ると、稲葉の主人をはじめ先方では非常に残念がり、そういう娘こそ見どころがあると言って、改めてこの縁談をまとめたいと言って来た。
この稲葉家の厚意は一層事をめんどうにした。そこには、どこまでも生家《さと》と青山の家との旧好を続けたいという継母おまんが強い意志も働き、それほどの先方の厚意を押し切るということは、半蔵としても容易でなかったからである。
武士としてもすぐれた坂本孫四郎(号天山)のような人を祖父に持つおまんの心底をたたくなら、半蔵なぞはほとんど彼女の眼中にない。彼女に言わせると、これというのも実は半蔵が行き届かないからだ。彼半蔵が平常も人並みではなくて、おかしい事ばかり。そのために彼女まで人でなしにされて、全く生家《さと》の人たちには合わせる顔がない。彼女はその調子だ。このおまんは傷口の直ったばかりのような孫娘を自分の前に置いて、まだ顔色も青ざめているお粂に、いろいろとありがたい稲葉家の厚意を言い聞かせた。なお、あまりに義理が重なるからとおまんは言って、栄吉その他のものまで頼み、それらの親戚《しんせき》の口からも、さまざまに理解するよう娘に言いさとした。お粂はそこへ手をついて、ただただ恥ずかしいまま、お許しくだされたいとばかり。別に委細を語らない。これにはおまんも嘆息してしまった。
半蔵は、血と血の苦しい抗争が沈黙の形であらわれているのをそこに見た。いろいろと生家《さと》に掛けた費用のことを思い、世間の評議をも懸念《けねん》して、これがもし実の孫子《まごこ》であったら、いかようにも分別があると言いたげな飽くまで義理堅い継母の様子は、ありありとその顔色にあらわれていた。お粂は、と見ると、これはわずかに活《い》き返ったばかりの娘だ。せっかく立て直ろうとしている小さな胸に同じ事を苦しませるとしたら、またまた何をしでかすやも測りがたかった。この際、彼の取るべき方法は、妻のお民と共に継母をなだめて、目に見えない手枷《てかせ》足枷《あしかせ》から娘を救い出すのほかはなかった。
「ますます単純に。」
その声を彼は耳の底にききつけた。そして、あとからあとから彼の身辺にまといついて来る幾多の情実を払いのけて、新たな路《みち》を開きたいとの心を深くした。今は躊躇《ちゅうちょ》すべき時でもなかった。彼としては、事を単純にするの一手だ。
そこで彼は稲葉氏あてに、さらに手紙を書いた。それを南殿村への最後の断わり
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