ばかりではない。復古の道、平田一門の前途――彼にはかずかずの心にかかることがあるからであった。
 正香は一人の供を連れて、その日の夕方に馬で着いた。明荷葛籠《あきにつづら》の蒲団《ふとん》の上なぞよりも、馬の尻《しり》の軽い方を選び、小付《こづけ》荷物と共に馬からおりて、檜笠《ひのきがさ》の紐《ひも》を解いたところは、いかにもこの人の旅姿にふさわしい。
「やあ。」
 正香と半蔵とが久々の顔を合わせた時は、どっちが先とも言えないようなその「やあ」が二人《ふたり》の口をついて出た。客を迎えるお民のうしろについて、いそいそと茶道具なぞ店座敷の方へ持ち運ぶ娘までが、日ごろ沈みがちなお粂とは別人のようである。子供本位のお民はうれしさのあまり、勝手のいそがしさの中にもなおよく注意して見ると、娘はすぐ下の十六歳になる弟に、
「宗太、きょうのお客さまは平田先生の御門人だよ。」
 と言って見せるばかりでなく、五歳になる弟まで呼んで、
「森夫《もりお》もおいで。さあ、おベベを着かえましょうね。」
 と、よろこぶ様子である。まるで、父の先輩が彼女のところへでも訪れて来てくれたかのように。これにはお民も驚いて
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