るからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、旦那《だんな》(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれが舵《かじ》の取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは性分《しょうぶん》でしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が達者《たっしゃ》でいる時分にはよくそのお話さ。」
 そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、彦根《ひこね》よりする井伊|掃部頭《かもんのかみ》、名古屋よりする成瀬隼人之正《なるせはやとのしょう》、江戸よりする長崎奉行水野|筑後守《ちくごのかみ》、老中|間部下総守《まなべしもうさのかみ》、林|大学頭《だいがくのかみ》、監察岩瀬|肥後守《ひごのかみ》から、水戸の武田耕雲斎《たけだこうう
前へ 次へ
全489ページ中63ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング