次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕の棚《たな》を置くこともできるような旧本陣の部屋《へや》部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿《つばき》を役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人《ふたり》のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。頬《ほお》の色なぞはつやつやと熟した林檎《りんご》のように紅《あか》い。
 ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の履物《はきもの》が脱いである。赤く錆《さ》びた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段《はしごだん》を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集《しゅうしゅう》して置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた
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