二汁《にじゅう》、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納《ゆいのう》のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢《しろむく》一反、それに酒の差樽《さしだる》一|荷《か》を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ姑《しゅうとめ》おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太《そうた》なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主《なぬし》見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤《おもかげ》の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見
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