ていた。
翌朝は早く山をたつ人もある。遠い国からの参詣者《さんけいしゃ》の中には、薄暗いうちから起きて帰りじたくをはじめる講中仲間もある。着物も白、帯も白、鉢巻《はちまき》も白、すべて白ずくめな山の巡礼者と前後して、やがて半蔵も禰宜の家の人たちに別れを告げて出た。彼が帰って行く山道の行く先には、手にする金剛杖《こんごうづえ》もめずらしそうな人々の腰に着けた鈴の音が起こった。王政第六の春もその四月ころには、御嶽のふもとから王滝川について木曾福島の町まで出ると、おそらく地方の発行としては先駆と言ってよい名古屋本町通りの文明社から出る木版彫刻半紙六枚の名古屋新聞が週報ながらに到着するころである。時事の報道を主とする伝聞雑誌のごとき体裁しかそなえていないものではあるが、それらの週報は欧米教育事業の視察の途に上った旧名古屋藩士、田中|不二麿《ふじまろ》が消息を伝えるころである。過ぐる四年の十一月十日、特命全権の重大な任務を帯びて日本を出発した岩倉大使の一行がどんな土産《みやげ》をもたらして欧米から帰朝するかは、これまた多く人の注意の的《まと》となっていた時だ。その一行、随員従者留学生等総員百七
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