めを自由にするためにその座敷の廊下のところへ出た。山里の中の山里ともいうべき御嶽のすその谷がその位置から望まれる。そこへも五平が立って来て、谷の下の方に遠く光る王滝川を半蔵と一緒にながめた。木と木の梢《こずえ》の重なり合った原生林の感じも深く目につくところで、今はほとんど自由に入山《いりやま》伐木の許さるる場処もない。しかし、半蔵は、他に客のあるけはいもするこの禰宜の家で五平と一緒になってからは、総代仲間の話なぞを一切口にしなかった。五平はまた五平で、そこの山、ここの谷を半蔵にさして見せ、ただ風景としてのみ、生まれ故郷を語るだけであった。
もはや、温暖《あたたか》い雨は幾たびとなく木曾の奥地をも通り過ぎて行ったころである。山鶯《やまうぐいす》もしきりになく。五平が贄川《にえがわ》での再会を約して別れて行った後、半蔵はひとり歌書などを読みちらした。夕方からはことに春先のような陽気で、川の流れを中心にわき立つ靄《もや》が谷をこめた。そろそろ燈火《あかり》のつく遠い農家をながめながら、馬籠を出しなに腰にさして来た笛なぞを取り出した時は、しばらく彼もさみしく楽しい徒然《つれづれ》に身をまかせ
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