た思いがけない旅の西洋人の印象は容易に彼から離れなかった。過ぐる嘉永《かえい》六年の夏に、東海道浦賀の宿、久里《くり》が浜《はま》の沖合いにあらわれたもの――その黒船の形を変えたものは、下田《しもだ》へも着き、横浜へも着き、三百年の鎖国の事情も顧みないで進み来るような侮りがたい力でもって、今は早瀬を上る鮎《あゆ》のようにこんな深い山間までも入り込んで来た。昨日の黒船は、今日の愛知県の教師だ。これには彼も驚かされた。
福島から王滝まで、翌日もまた半蔵は道をつづけ、行人橋《ぎょうにんばし》から御嶽山道について常磐《ときわ》の渡しへと取り、三沢というところで登山者のために備えてある筏《いかだ》を待ち、その渡しをも渡って、以前にも泊めてもらった王滝の禰宜《ねぎ》の家の人たちの声を久しぶりで聞いた。
「お客さまだぞい。馬籠の本陣からおいでたげな。」
「おゝ、青山さんか。これはおめずらしい。」
王滝の戸長遠山五平は禰宜の家からそう遠くない住居《すまい》の方で、この半蔵が自分の村に到着するのを今日か明日かと心待ちに待ちうけているところであった。山林事件の嘆願書提出については、五平は最初から半
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