剃刀《かみそり》を持たせてはまず名人だと日ごろ多吉が半蔵にほめて聞かせるのも、そこに働いている亭主のことである。
「これは、いらっしゃい。」
その柳床の亭主が声を聞いて、半蔵は二、三の先着の客のそばに腰掛けた。髷《まげ》のあるもの、散髪のもの、彼のように総髪《そうがみ》にしているもの、そこに集まる客の頭も思い思いだ。一方にはそこに置いてある新版物を見つけて当時評判な作者|仮名垣魯文《かながきろぶん》の著わしたものなぞに読みふける客もあれば、一方には将棋をさしかけて置いて床屋の弟子《でし》に顔をやらせる客もある。なんと言っても、まだまだ世の中には悠長《ゆうちょう》なところがあった。やがて半蔵の順番に回って来ると、床屋の亭主が砥石《といし》の方へ行ってぴったり剃刀をあてる音にも、力を入れてそれを磨《と》ぐ音にも、彼は言いあらわしがたい快感を覚えた。むさくるしく延びた髭《ひげ》が水にしめされながら剃られるたびに、それが亭主の手の甲の上にもあり、彼の方で受けている小さな板の上にも落ちた。
いつのまにか彼の心は、あとからはいって来た客の話し声の方へ行った。過ぐる日、帝の行幸のあったおり、神田
前へ
次へ
全489ページ中213ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング