《そう》を数え、ある年は蘭船《らんせん》四、五艘を数えたが、ついに貞享《じょうきょう》元禄《げんろく》年代の盛時に達した。元禄元年には、実に唐船百十七艘、高麗《こうらい》船三十三艘、蘭船三艘である。過去の徳川時代において、唐船が長崎に来たのは、貞享元禄のころを最も多い時とする。正保《しょうほう》元年、明朝《みんちょう》が亡《ほろ》びて清朝《しんちょう》となったころから、明末の志士、儒者なぞのこの国に来て隠れるものもすくなくはなく、その後のシナより長崎に渡来する僧侶《そうりょ》で本国の方に名を知られたほどのものも年々絶えないくらいであった。寛延《かんえん》年代には幕府は長崎入港の唐船を十五艘に制限し、さらに寛政三年よりは一か年十艘以上の入港を許さなかった。これらは何を意味するかなら、海の外にあるものがさまざまな形でこの国に流れ込んで来たことを語るものであり、荷田春満《かだのあずままろ》あたりを先駆とする国学たりとも、言わば外来の刺激を受けて発展したにほかならない。あの本居宣長が儒仏や老荘の道までもその荒い砥石《といし》として、あれほど日本的なものを磨《みが》きあげたのを見ても、思い半ばに
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