から》を脱ぎ捨てよと教えたあの本居翁あたりが開こうとしたものこそ、まことの近《ちか》つ代《よ》であると信ずる彼なぞにとっては、このいわゆる文明開化がまことの文明開化であるかどうかも疑問であった。物学びする業《わざ》に心を寄せ、神にも仕え、人をも導こうとするほどのものが、おのれを知らないではかなわないことであった。それにはヨーロッパからはいって来るものをも見定めねばならない。辺鄙《へんぴ》な飛騨の山の方へ行って、それのできるかどうか、これまたすこぶる疑問であった。

       五

 長い鎖国の歴史をたどると、寛永年代以来世界交通の道も絶え果てていたことは二百二十年もの間にわたったのである。奉書船以外の渡航禁止の高札が長崎に建てられ、五百石以上の大船を造ることをも許されなかったのは徳川幕府の方針であって、諸外国に対する一切の門戸は全く鎖《とざ》されたようであるが、それでも一つの窓だけは開かれていた。
 はじめて唐船《からふね》があの長崎の港に来たのは永禄《えいろく》年代のことであり、南蛮船の来たのは元亀《げんき》元年の昔にあたる。それから年々来るようになって、ある年は唐船三、四十|艘
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