中の空気の濃いところに身を置き得て、町人多吉夫婦のような気の置けない人たちのそばに自分を見つけた日から、ほとんど別の人のような心を起こした。彼はうす暗い中に起きて、台所の裏手にある井戸のそばで、すがすがしい朝の空気を胸いっぱいに吸い、まず自分の身を浄《きよ》めることを始めた。そして毎朝|水垢離《みずごり》を取る習慣をつけはじめた。
 今は親しいもののだれからも遠い。一、六と定められた役所の休日に、半蔵は多吉方の二階の部屋《へや》にいて、そろそろ梅雨の季節に近づいて行く六月の町の空をながめながら、家を思い、妻を思い、子を思った。その時になると、外には台湾生蕃《たいわんせいばん》征討の事が起こり、内には西南地方の結社組織のうわさなぞがしきりに伝わって来て、息苦しい時代の雲行きはどうしてそうたやすく言えるわけのものでもなかったが、しかしなんとなく彼の胸にまとまって浮かんで来るものはある。うっかりすると御一新の改革も逆に流れそうで、心あるものの多くが期待したこの世の建て直しも、四民平等の新機運も、実際どうなろうかとさえ危ぶまれた。
 いったん時代から沈んで行った水戸《みと》のことが、またしきり
前へ 次へ
全489ページ中153ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング