ら、しいて天理に戻るということもあるまい。自分らごときは他人の異見を待たずに、不羈《ふき》独立して大和魂《やまとだましい》を堅め、善悪邪正と是非得失とをおのが狭い胸中に弁別し、根本の衰えないのを護念して、なお枝葉の隆盛に懸念《けねん》する。もとより神仏を敬する法は、みな報恩と謝徳とをもってする。これを信心と言う。自分の身に利得を求めようとするのは、皆欲情である。報恩謝徳の厚志があらば、神明の加護もあろう。仏といえども、道理に違《たご》うことのあるべきはずがない。自分らには現世《げんせ》を安穏にする欲情もなければ、後生《ごせ》に善処する欲情もない。天賦の身は天に任せ、正を行ない邪に組せず、現世後生は敵なく、神理を常として真心を尽くすを楽しみとするのみだから、すこしも片手落ちなどの欲念邪意があることはない。これが松雲和尚の包み隠しのないところであった。
禅僧としての松雲は動かないように見えて、その実、こんなに静かに動いていた。この人にして見ると、時が移り世態が革《あらた》まるのは春夏秋冬のごとくであって、雲起こる時は日月も蔵《かく》れ、その収まる時は輝くように、聖賢たりとも世の乱れる時に
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