の手紙が書けない。月の末にも書けない。とうとう十月の半ばまで延引して、彼は書くべき断わり手紙の下書きまで用意しながら、いざとなると筆が進まなかった。


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「拝啓。冷気相増し候《そうろう》ところ、皆々様おそろいますます御清適に渡らせられ、敬寿たてまつり候。陳《のぶ》れば、昨冬以来だんだん御懇情なし下されし娘粂儀、南殿村稲葉氏へ縁談御約諾申し上げ置き候ところ、図らずも心得違いにて去月五日土蔵二階にて自刃に及び、母妻ら早速《さっそく》見つけて押しとどめ、親類うち寄り種々申し諭《さと》し、医療を加え候ところ、四、五日は飲食も喉《のど》に下りかねよほどの難治に相見え申し候。幸い療養の効《かい》ありて、追い追いと快方におもむき、この節は食事も障《さわ》りなく、疵《きず》は日に増し癒《い》え候方に向かいたれども、気分いまだ平静に相成らざる容体にて、心配の至りに御座候。実もって、家内一同へすこしもその様子は見せ申さず、皆々心付け申さず、かかる挙動に及び候儀、言語に絶し、女心とは申しながら遺憾すくなからず、定めし稲葉氏には御用意等も追い追い遊ばされ候儀と推察たてまつり、南殿村へ対
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