あえず半蔵らはその請書《うけしょ》を認《したた》め、ついでにこの地方の人民が松本辺の豊饒《ほうじょう》な地とも異なり深山幽谷の間に居住するもののみであることを断わり、宿場《しゅくば》全盛の時代を過ぎた今日となっては、茶屋、旅籠屋《はたごや》をはじめ、小商人《こあきんど》、近在の炭《すみ》薪《まき》等を賄《まかな》うものまでが必至の困窮に陥るから、この上は山林の利をもって渡世を営む助けとしたいものであると、その請書を出す時には御停止木のことに触れ置いてあった。当時の信濃《しなの》の国は長野県と筑摩県との二つに分かれ、筑摩県の管轄区域は伊那《いな》の谷から飛騨《ひだ》地方にまで及んでいた。本庁所在地松本以外の支庁も飯田《いいだ》と高山《たかやま》とにしか取り設けてなかったほどの草創の時で、てんで木曾福島あたりにはまだ支庁も置かれなかった。遠い村々から松本までは二十里、三十里である。何事を本庁に届けるにもその道を踏まねばならぬ。それだけでも人民疾苦の種である。半蔵らの請書はその事にも言い及んであった。東北戦争以来、すでにそのころは四年の月日を過ぎ、一藩かぎりの制度も改革されて、徳川旧幕府の人たちですら心あるものは皆待ち受けていた新たな郡県の時代が来た。これは山間居住の民にとっても見のがせない機会であったのだ。
もともとこの山林事件は明治初年にはじまった問題でもなく、実は旧領主と人民との間に続いた長い紛争の種で、御停止木のことは木曾谷第一の苦痛であるとされていた。こんなに明治になってまた活《い》き返って来たというのも決して偶然ではない。それは宿村の行き詰まりによることはもちろんであるが、一つには明治もまだその早いころで、あらゆるものに復古の機運が動いていたからであった。当時、深い草叢《くさむら》の中にあるものまでが時節の到来を感じ、よりよい世の中を約束するような新しい政治を待ち受けた。従来の陋習《ろうしゅう》を破って天地の公道に基づくべしと仰せ出された御誓文の深さは、どれほどの希望を多くの民に抱《いだ》かせたことか。半蔵らが山林に目をつけ、今さらのように豊富な檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、それから※[#「木+鑞のつくり」、13−1]《ねずこ》などの繁茂する森林地帯の深さに驚き、それらのみずみずしい五木がみな享保年代からの御停止木であるにも驚き、そこに疲弊した宿村の救いを見いだそうとしたことは無理だったろうか。彼らが復古のできると思った証拠には、最初の嘆願書にも御誓文の中の言葉を引いて、厚い慈悲を請う意味のことを書き出したのでもわかる。やがて、筑摩県の支庁も木曾福島の方に設けられ、権中属《ごんちゅうぞく》の本山盛徳が主任の官吏として木曾の村々へ派出される日を迎えて見ると、この人はまた以前の土屋総蔵なぞとは打って変わった態度をとった。もしも人民の請いをいれ、木曾山を解き放ち、制度を享保以前の古に復し、これまで明山《あきやま》ととなえて来た分は諸木何品に限らず百姓どもの必要に応じて伐《き》り採ることを許したなら、せっかく尾州藩で保護して来た鬱蒼《うっそう》とした森林はたちまち禿山《はげやま》に変わるであろうとの先入主となった疑念にでも囚《とら》われたものか、本山盛徳は御停止木の解禁なぞはもってのほかであるとなし、木曾谷諸村の山地はもとより、五種の禁止木のあるところは官木のあるところだとの理由の下に、それらの土地をもあわせすべて官有地と心得よとの旨《むね》を口達した。この福島支庁の主任が言うようにすれば、五木という五木の生長するところはことごとく官有地なりとされ、従来の慣例いかんにかかわらず、官有林に編入せられることになる。これには人民一同|狼狽《ろうばい》してしまった。
過ぐる月日の間、半蔵はあちこちの村々から腰縄付《こしなわつ》きで引き立てられて行く不幸な百姓どもを見て暮らした。人民入るべからずの官有林にはいって、盗伐の厳禁を犯すものが続出した。これをその筋の人に言わせたら、規則の何たるをわきまえない無知と魯鈍《ろどん》とから、村民自ら犯したことであって、さらに寛恕《かんじょ》すべきでないとされたであろう。
それにつけても、まだ半蔵には忘れることのできないずっと年若な時分の一つの記憶がある。馬籠村じゅうのものが吟味のかどで、かつて福島から来た役人に調べられたことがある。それは彼の本陣の家の門内で行なわれた。広い玄関の上段には、役人の年寄《としより》、用人《ようにん》、書役《かきやく》などが居並び、式台のそばには足軽《あしがる》が四人も控えた。村じゅうのものがそこへ呼び出された。六十一人もの村民が腰縄手錠で宿役人へ預けられることになったのも、その時だ。七十歳以上の老年は手錠を免ぜられ、すでに死
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