亡したものは遺族の「お叱《しか》り」ということにとどめられたが、それも特別の憐憫《れんびん》をもってと言われたのも、またその時だ。そのころの半蔵はまだ十八歳の若さで、庭のすみの梨《なし》の木のかげに隠れながらのぞき見をしていたために、父吉左衛門からしかられたことがある。そんなにたくさんなけが人を出したことも、村の歴史としてはかつて聞かなかったことだと父も言っていた。彼はあの役人たちが吟味のために村に入り込むといううわさでも伝わると、あわてて不用の材木を焼き捨てた村の人のあったことを想《おも》い起こすことができる。「昔はこの木曾山の木一本|伐《き》ると、首一つなかったものだぞ」なぞと言って、陣屋の役人から威《おど》されたのもあの時代だ。それほど暗いと言わるる過去ですら、明山《あきやま》は五木の伐採を禁じられていたにとどまる。その厳禁を犯さないかぎり、村民は意のままに山中を跋渉《ばっしょう》して、雑木を伐採したり薪炭《しんたん》の材料を集めたりすることができた。今になって見ると、御停止木の解禁はおろか、尾州藩時代に許されたほどの自由もない。家を出ればすぐ官有林のあるような村もある。寒い地方に必要な薪炭ややせた土を培《つちか》うための芝草を得たいにも、近傍付近は皆官有地であるような場所もある。木曾谷の人民は最初からの嘆願を中止したわけでは、もとよりない。いかに本山盛徳の鼻息が荒くとも、こんな過酷な山林規則のお請けはできかねるというのが人民一同の言い分であった。耕地も少なく、農業も難渋で、生活の資本《もとで》を森林に仰ぎ、檜木笠《ひのきがさ》、めんぱ(割籠《わりご》)、お六櫛《ろくぐし》の類《たぐい》を造って渡世とするよりほかに今日暮らしようのない山村なぞでは、ほとんど毎戸かわるがわる腰縄付きで引き立てられて行くけが人を出すようなありさまになって来た。半蔵らが今一度嘆願書の提出を思い立ち、三十三か村の総代として直接に本県へとこころざすようになったのも、この郷里のありさまを見かねたからである。
この再度の奔走をはじめる前、半蔵のしたくはいろいろなことに費やされた。明治五年の二月に、彼は早くも筑摩県庁あて嘆願書の下書きを用意したが、いかに言っても郡県の政治は始まったばかりの時で、種々《さまざま》な事情から差し出すことを果たさなかった。それからちょうど一年待った。明治六年の二月まで、彼は古来の沿革をたずねることや、古書類をさがすことに自分のしたくを向けた。ある村の惣百姓《そうひゃくしょう》中から他村の衆にあてた証文とか、ある村の庄屋|組頭《くみがしら》から御奉行所に出した一札とか、あるいは四か村の五人組総代から隣村の百姓衆に与えた取り替え証文とかいうふうに。さがせばさがすほど、彼の手に入る材料は、この古い木曾山が自由林であったことを裏書きしないものはなかった。言って見れば、この地方の遠い古《いにしえ》は山にたよって樵務《きこり》を業とする杣人《そまびと》、切り畑焼き畑を開いて稗《ひえ》蕎麦《そば》等の雑穀を植える山賤《やまがつ》、あるいは馬を山林に放牧する人たちなぞが、あちこちの谷間《たにあい》に煙を立てて住む世界であったろう。追い追いと人口も繁殖する中古のころになって、犬山の石川備前守《いしかわびぜんのかみ》がこの地方の管領であった時に、谷中|村方《むらかた》の宅地と開墾地とには定見取米《じょうみとりまい》、山地には木租《ぼくそ》というものを課せられた。もとより米麦に乏しい土地だから、その定見取米も大豆や蕎麦や稗《ひえ》などで納めさせられたが、年々おびただしい木租を運搬したり、川出ししたりする費用として、貢納の雑穀も春秋二度に人民へ給与せられたものである。さて、徳川治世のはじめになって、この谷では幕府直轄の代官を新しい主人公に迎えて見ると、それが山村氏の祖先であったが、諸事石川備前守の旧例によることには変わりはなかった。慶長《けいちょう》年代のころには定見取米を御物成《おものなり》といい、木租を御役榑《おやくくれ》という。名はどうあろうとも、その実は同じだ。この貢納の旧例こそは、何よりも雄弁に木曾谷山地の歴史を語り、一般人民が伐木と開墾とに制限のなかったことを証拠立てるものであった。もっとも、幕府では木租の中を割《さ》いて、白木《しらき》六千|駄《だ》を木曾の人民に与え、白木五千駄を山村氏に与え、別に山村氏には東美濃地方に領地をも与えて、幕府に代わって東山道中要害の地たる木曾谷と福島の関所とを護《まも》らせた。それより後、この谷はさらに尾州の大領主の手に移り、山村氏が幕府直轄を離れて名古屋の代官を承るようになって、尾州藩では山中の区域を定める方針を立てた。巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区別は初めてその時にできた。巣
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