山と留山とは絶対に人民のはいることを許さない。しかし明山は慶長年間より享保八年まで連綿として人民が木租を納め来たった場所であるからと言って、自由に入山《いりやま》伐木を許し、なお、木租の上納を免ずる代償として、許可なしに五木を伐採することを禁じたのである。
 こんな動かせない歴史がある。半蔵はそれらの事実から、さらにこの地方の真相を探り求めて、いわゆる木曾谷中の御免檜物荷物《ごめんひのきものにもつ》なるものに突き当たった。父吉左衛門が彼に残して行った青山家の古帳にも、そのことは出ている。それは尾州藩でも幕府直轄時代からの意志を重んじ、年々山から伐り出す檜類のうち白木六千駄を谷中の百姓どもに与えるのをさす。それを御免荷物という。そのうちの三千駄は檜物御手形《ひのきものおてがた》ととなえて人民の用材に与え、残る三千駄は御切替《おきりか》えととなえて、この分は追い追いと金に替えて与えた。彼が先祖の一人《ひとり》の筆で、材木通用の跡を記《しる》しつけた御免荷物の明細書によると、毎年二百駄ずつの檜、椹《さわら》の類は馬籠村民にも許されて来たことが、その古帳の中に明記してある。尾州藩ですらこのとおり、山間居住の容易でないことを察し、人民にわかち与えることを忘れなかった。郡県とも言わるる時代の上に立つものが改革の実をあげようとするなら、深くこの谷を注目し、もっと地方の事情にも通じて、生民の期待に添わねばなるまいと彼には思われた。
 嘆願書はできた。二月はじめから四月まで、半蔵はあちこちの村を訪《たず》ね回って、戸長らの意見をまとめることに砕心した。草稿の修正を求める。清書する。手を分けて十五人の総代の署名と調印とを求めに回る。いよいよ来たる五月十二日を期して、贄川《にえがわ》、藪原《やぶはら》、王滝《おうたき》、馬籠《まごめ》の四か村から出るものが一同に代わって本庁の方へ出頭するまでの大体の手はずをきめる。彼も心から汗が出た。この上は、御嶽山麓《おんたけさんろく》の奥にある王滝村を訪ねさえすれば、それで一切の打ち合わせを終わるまでにこぎつけた。彼はそれを早く済まして来るつもりで、自分の村方の用事を取りかたづけ、学校の子供の世話は松雲和尚に頼み、今は妻の帰りを待って王滝の方へ出かけられるばかりになった。
 こういう中で、彼は自分のそばへ来る娘の口から、ちょっと思いがけないことを聞きつけないでもなかった。
「お父《とっ》さん、おねがいですから、わたしもお供させて。」
 そのこころは、父の行く寂しい奥山の方へ娘の足でもついて行かれないことはあるまいというにあるらしい。
 これには半蔵も返事にこまった。いろいろにお粂《くめ》を言いなだめた。娘も妙なことを言うと彼は思ったが、あれもこれもと昼夜心を砕いた山林の問題が胸に繰り返されていて、お粂の方で言い出したことはあまり気にも留めなかった。

       三

 お民は妻籠《つまご》の生家《さと》の話を持って、和助やお徳を連れながらそこへ帰って来た。
「お民、寿平次さんはなんと言っていたい。」
「木曾山のことですか。兄さんはなんですとさ、支庁のお役人がかわりでもしないうちはまずだめですとさ。」
「へえ、寿平次さんはそんなことを言っていたかい。」
 半蔵夫婦はこんな言葉をかわしたぎり、ゆっくり話し合う時も持たない。妻籠|土産《みやげ》の風呂敷包《ふろしきづつ》みが解かれ、これは宗太に、これは森夫にと、留守居していた子供たちをよろこばせるような物が取り出されると、一時家じゅうのものは妻籠の方のうわさで持ち切る。妻籠のおばあさんからお粂にと言って、お民は紙に包んだ美しい染め糸なぞを娘の前にも取り出す。お徳の背中からおろされた四男の和助はその皆の間をはい回った。
 半蔵はすでに村の髪結い直次を呼び寄せ、伸びた髭《ひげ》まで剃《そ》らせて妻を待ち受けているところであった。鈴《すず》の屋《や》の翁《おきな》以来、ゆかりの色の古代紫は平田派の国学者の間にもてはやされ、先師の著書もすべてその色の糸で綴《と》じられてあるくらいだが、彼半蔵もまたその色を愛して、直次の梳《す》いてくれたのを総髪《そうがみ》にゆわせ、好きな色の紐《ひも》を後ろの方に結びさげていた。吉左衛門の時代から出入りする直次は下女のお徳の父親に当たる。
「お民、おれは王滝の方へ出かけるんだぜ。」
 それをみんなまで言わせないうちに、お民は夫の様子をみて取った。妻籠の兄を見て来た目で、まったく気質のちがった夫の顔をながめるのも彼女だ。その時、半蔵は店座敷の方へ行きかけて、
「おれは、いつでも出かけられるばかりにして、お前の帰りを待っていたところさ。お前の留守に、お母《っか》さんの枕屏風《まくらびょうぶ》もできた。」
 そういう彼とても、娘の縁談のことでわ
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