を相手にして、できるだけ村の子供の世話もしなければならないからであった。子弟の教育は年来の彼のこころざしであったが、まだ設備万端整わなかった。そういう彼は事を好んでこんな奔走をはじめたわけではない。これまで庄屋で本陣問屋を兼ねるくらいのところは荒蕪《こうぶ》を切り開いた先祖からの歴史のある旧家に相違なく、三百年の宿村《しゅくそん》の世話と街道の維持とに任じて来たのも、そういう彼らである。いよいよ従来の旧習を葬り去るような大きな革新の波が上にも下にも押し寄せて来た時、彼らもまた父祖伝来の家業から離れねばならなかったが、その際、報いらるることの少ない彼らの中には、もっと強く出てもいいと言い出したものがあり、この改革に不平を抱《いだ》いて、謹慎閉門の厳罰に処せられた庄屋問屋も少なくなかったくらいであるが、しかし半蔵なぞはそういう古い事に拘泥《こうでい》すべき場合でないとして、いさぎよく自分らをあと回しにしたというのも、決して他《ほか》ではない。あの東征軍が江戸城に達する前日を期して、陛下が全国人民に五つのお言葉を誓われたことは、まだ半蔵らの記憶に新しい。あのお言葉こそすべてであった。ところが、地方の官吏にその人を得ないため、せっかくの御誓文《ごせいもん》の趣旨にも添いがたいようなことが、こんな山の中に住むものの目の前にまで起こって来た。それは木曾川《きそがわ》上流の沿岸から奥筋へかけての多数の住民の死活にもかかわり、ただ一地方の問題としてのみ片づけてしまえないことであった。それが山林事件だ。

       二

「海辺の住民は今日漁業と採塩とによって衣食すると同じように、山間居住の小民にもまた樹木鳥獣の利をもって渡世を営ませたい。いずこの海辺にも漁業と採塩とに御停止と申すことはない。もっとも、海辺に殺生禁断の場処があるように、山中にも留山《とめやま》というものは立て置かれてある。しかし、それ以外の明山《あきやま》にも、この山中には御停止木《おとめぎ》ととなえて、伐採を禁じられて来た無数の樹木のあるのは、恐れながら庶民を子とする御政道にもあるまじき儀と察したてまつる。」
 これは木曾谷三十三か村の総代十五名のものが連署して、過ぐる明治四年の十二月に名古屋県の福島出張所に差し出した最初の嘆願書の中の一節の意味である。山林事件とは、この海辺との比較にも言って見せてあるように、最初は割合に単純な性質のものであった。従来|尾州《びしゅう》領であったこの地方では、すべてにわたり同藩保護の下に発達して来たようなもので、各村とも榑木御切替《くれきおきりか》えととなえて、年々の補助金を同藩より受け、なお、補助の目的で隣国|美濃《みの》の大井村その他の尾州藩管下の村々から輸入されて来る米の代価も、金壱両につき年貢金納《ねんぐきんのう》値段よりも五升安の割合で、それも翌年の十二月中に代金を返済すればいいほどの格別な取り扱いを受けて来た。いよいよ廃藩置県が実現され、一藩かぎりで立てて置いた制度もすべて改革される日が来て見ると、明治四年を最後としてこれらの補助を廃止する旨の名古屋県からの通知があり、おまけに簡易省略の西洋流儀に移った交通事情の深い影響をうけて、木曾路を往来する旅人からも以前のようには土地を潤してもらえなくなった。この事情を当局者にくんでもらって、今度の改革を機会に享保《きょうほう》以前の古《いにしえ》に復し、木曾谷中の御停止木《おとめぎ》を解き、山林なしには生きられないこの地方の人民を救い出してほしい。これが最初の嘆願書の趣意であった。その起草にも半蔵が当たった。彼らがこれを持ち出したのは、木曾地方もまさに名古屋県の手を離れようとしたころで、当時は民政|権判事《ごんはんじ》としての土屋総蔵もまだ在職したが、ちょうど名古屋へ出かけた留守の時であった。そこでこの願書は磯部弥五六《いそべやごろく》が取り次ぎ、岩田市右衛門《いわたいちえもん》お預かりということになった。いずれ土屋|権大属《ごんだいぞく》帰庁の上で評議にも及ぶであろう、それまではまずまず預かり置く、そんな話で、王滝《おうたき》、贄川《にえがわ》、藪原《やぶはら》の三か村から出た総代と共に、半蔵は福島出張所から引き取って来た。もし土屋総蔵のような理解のある人に今すこしその職にとどまる時を与えたらと、谷中の戸長仲間でそれを言わないものはなかった。不幸にも、総蔵は筑摩県の官吏らに一切を引き渡し、前途百年の計をあとから来るものに託して置いて、多くの村民に惜しまれながらこの谷を去った。
 木曾地方が筑摩県の管轄に移されたのは、それから間もなくであった。明治五年の二月には松本を所在地とする新しい県庁からの申し渡し、ならびに布令書《ふれがき》なるものが、早くもこの谷中へ伝達されるようになった。とり
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