母と共に南殿村の稲葉の家に養われたのがおまんだ。婦人ながらに漢籍にも通じ、読み書きの道をお粂に教え、時には『古今集』の序を諳誦《あんしょう》させたり、『源氏物語』を読ませたりして、筬《おさ》を持つことや庖丁《ほうちょう》を持つことを教えるお民とは別の意味で孫娘を導いて来たのもまたおまんだ。年をとればとるほど、彼女は祖父孫四郎の武士|気質《かたぎ》をなつかしむような人である。
このおまんは継母として、もう長いこと義理ある半蔵をみまもって来た。半蔵があの中津川の景蔵や同じ町の香蔵などの学友と共に、若い時分から勤王家の運動に心を寄せていることを家中のだれよりも先に看破《みやぶ》ったくらいのおまんだから、今さら半蔵がなすべきことをなして、そのために福島支庁からきびしい督責をこうむったと聞かされても、そんなことには驚かない。ただただおまんは、吉左衛門や金兵衛が生前によく語り合ったことを思い出して、半蔵にこの青山の家がやりおおせるか、どうかと危ぶんでいる。
お民を前に置いて、おまんは縫いかけた長襦袢《ながじゅばん》のきれを取り上げながら、また話しつづけた。目のさめるような京染めの紅絹《もみ》の色は、これから嫁《とつ》いで行こうとする子に着せるものにふさわしい。
「そう言えば、お民、半蔵が吾家《うち》の地所や竹藪《たけやぶ》を伏見屋へ譲ったげなが、お前もお聞きかい。」
おまんの言う地所の譲り渡しとは、旧本陣屋敷裏の地続きにあたる竹藪の一部と、青山家所有のある屋敷地二|畝《せ》六|歩《ぶ》とを隣家の伊之助に売却したのをさす。藪五両、地所二十五両である。その時の親戚請人《しんせきうけにん》には栄吉、保証人は峠の旧|組頭《くみがしら》平兵衛である。相変わらず半蔵のもとへ手伝いに通《かよ》って来る清助からおまんはくわしいことを聞き知った。それがお粂の嫁入りじたくの料に当てられるであろうことは、おまんにもお民にも想像がつく。
「たぶん、こんなことになるだろうとは、わたしも思っていたよ。」とまたおまんは言葉をついで、「そりゃ、本陣から娘を送り出すのに、七通りの晴衣《はれぎ》もそろえてやれないようなことじゃ、お粂だって肩身が狭かろうからね。七通りと言えば、地白、地赤、地黒、総模様、腰模様、裾《すそ》模様、それに紋付ときまったものさ。古式の御祝言《ごしゅうげん》では、そのたびにお吸物も変わるからね。しかし、今度のような場合は特別さ。今度だけはお前、しかたがないとしても、旦那《だんな》(吉左衛門)が半蔵にのこして置いて行った先祖代々からの山や田地はまだ相応にあるはずだ。あれが舵《かじ》の取りよう一つで、この家がやれないことはないとわたしは思うよ。無器用に生まれついて来たのは性分《しょうぶん》でしかたがないとしても、もうすこし半蔵には経済の才をくれたいッて、旦那が達者《たっしゃ》でいる時分にはよくそのお話さ。」
そういうおまんは何かにつけて自分の旦那の時代を恋しく思い出している。この宿場の全盛なころには街道を通る大名という大名、公役という公役、その他、世に時めく人たちで、青山の家の上段の間に寝泊まりしたり休息したりして行かないものはなかった。過ぐる年月の間の意味ある通行を数えて見ても、彦根《ひこね》よりする井伊|掃部頭《かもんのかみ》、名古屋よりする成瀬隼人之正《なるせはやとのしょう》、江戸よりする長崎奉行水野|筑後守《ちくごのかみ》、老中|間部下総守《まなべしもうさのかみ》、林|大学頭《だいがくのかみ》、監察岩瀬|肥後守《ひごのかみ》から、水戸の武田耕雲斎《たけだこううんさい》、旧幕府の大目付《おおめつけ》で外国奉行を兼ねた山口|駿河守《するがのかみ》なぞまで――御一新以前だけでも、それらの歴史の上の人物はいずれもこの旧本陣に時を送って行った。それを記念する意味からも、おまんは自分の忘れがたい旦那と生涯《しょうがい》を共にしたこの青山の家をそう粗末には考えられないとしていた。たとい、城を枕《まくら》に討《う》ち死《じ》にするような日がやって来ても、旧本陣の格式は崩《くず》したくないというのがおまんであった。
お民は母屋《もや》の方へ戻《もど》りかける時に言った。
「お母《っか》さん、あなたのようにそう心配したらきりがない。見ていてくださいよ。わたしもこれから精いっぱい働きますからね。そう言えば、稲葉の家の方からは、来月の二十二日か、二十三日が、日が良いと言って来てありますよ。まあ、わたしもぐずぐずしちゃいられない。」
三
その月の末、平田同門の先輩の中でもことに半蔵には親しみの深い暮田正香《くれたまさか》の東京方面から木曾路《きそじ》を下って来るという通知が彼のもとへ届いた。
半蔵は久しぶりであの先輩を見うるよろこびを妻に分け
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