次の間から、仲の間、奥の間まで、そこには蚕の棚《たな》を置くこともできるような旧本陣の部屋《へや》部屋が彼女を待っていた。髪につける油を自分で絞ろうとさえ思えば、毎年表庭の片すみに実を結ぶ古い椿《つばき》を役に立てることもできた。四人の子を控えた母親として、ことにまだ幼い二人《ふたり》のものを無事に育てたいとの心願から、お民もその決心に至ったのである。彼女はまた持って生まれた快活さで、からだもよく動く。頬《ほお》の色なぞはつやつやと熟した林檎《りんご》のように紅《あか》い。
ある日、お民は娘が嫁入りじたくのために注文して置いた染め物の中にまだ間に合わないもののあるのをもどかしく思いながら、取り出す器物の用があって裏の土蔵の方へ行った。入り口の石段の上には夫の履物《はきもの》が脱いである。赤く錆《さ》びた金網張りの重い戸にも大きな錠がはずしてある。ごとごと二階の方で音がするので、何げなくお民は梯子段《はしごだん》を登って行って見た。青山の家に伝わる古刀、古い書画の軸、そのほか吉左衛門が生前に蒐集《しゅうしゅう》して置いたような古い茶器の類なぞを取り出して思案顔でいる半蔵をそこに見つけた。そこは板敷きになった階上で、おまんの古い長持《ながもち》や、お民が妻籠から持って来た長持なぞの中央に置き並べてあるところだ。何十年もかかって半蔵の集めた和漢の蔵書も壁によせて積み重ねてあるところだ。その時、お民は諸方の旧家に始まっている売り立てのうわさに結びつけて、そんな隠れたところに夫が弱味をのぞいて見た時は、胸が迫った。
二
土蔵の建物と裏二階の隠居所とは井戸の方へ通う細道一つへだてて、目と鼻の間にある。お民はその足で裏二階の方に姑を見に行った。娘を伊那へ送り出すまで、何かにつけてお民が相談相手と頼んでいるのは、おまんのほかになかったからで。
「お母《っか》さん。」
と声をかけると、ちょうどおまんは小用でも達《た》しに立って行った時と見えて、日ごろ姑がかわいがっている毛並みの白い猫《ねこ》だけが麻の座蒲団《ざぶとん》の上に背を円《まる》くして、うずくまっていた。二間を仕切る二階の部屋《へや》の襖《ふすま》も取りはずしてあるころで、すべて吉左衛門が隠居時代の形見らしく、そっくり形も崩《くず》さずに住みなしてある。そこいらには、針仕事の好きな姑が孫娘のために縫いかけた長襦袢《ながじゅばん》のきれなぞも取りちらしてあって、そこにもお粂が結婚の日取りの近づいたことを語っている。古い針箱のそばによせて、小さな味醂《みりん》の瓶《かめ》の片づけずに置いてあるのもお民をほほえませた。姑のような年取った女の飲む甘いお酒が押入れの中に隠してあることをお民も知っているからであった。
そのうちに、おまんはお民のいるところへ戻《もど》って来て、
「お民か。お前はちょうどよいところへ来てくれた。稲葉のおそのさん(おまんが里方の夫人)へはわたしから返事を出して置いたよ。あのおそのさんもお前、いろいろ心配していてくれると見えてね、馬籠《まごめ》から上伊那の南殿村まで女の足では三日路というくらいのところだから、わざわざ諸道具なぞ持ち運ぶには及ばん、お粂の箪笥《たんす》、長持、針箱の類はこちらで取りそろえて置くと言ってよこしたさ。手洗い桶《おけ》、足洗い桶なぞもね。ごらんな、なんとかこちらからも言ってやらなけりゃ悪いから、御承知のとおりな遠路《とおみち》なことじゃあるし、お民も不調法者で、したくも行き届かないが、まあ万事よろしく頼む――そうわたしは返事を書いてやったよ。」
「どうでしょう、お母《っか》さん、今度の山林事件が稲葉へは響きますまいか。うちじゃ、もう庄屋でも、戸長でもありませんよ。」とお民が言って見る。
「そんな稲葉の家じゃあらすかい。いったん結納の品まで取りかわして、改めて親類の盃《さかずき》でもかわそうと約束したものが、家の事情でそれを反古《ほご》にするような水臭い人たちなら、最初からわたしはお粂の世話なんぞしないよ。あのおそのさんはじめ、それは義理堅い、正しい人だからね。」
おまんはその調子だ。
ここですこしこの半蔵が継母のことを語って置くのも、山国の婦人というものを知る上にむだなわざではないだろう。おまんも年は取って、切りさげた髪はもはや半ば白かったが、あの水戸《みと》浪士の同勢がおのおの手にして来た鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀をも恐れずにひとりで本陣の玄関のところへ応接に出たような、その気象はまだ失わずにある。そういうおまんの教養は、まったく彼女の母から来ている。母は、高遠《たかとお》の内藤大和守《ないとうやまとのかみ》の藩中で、坂本流砲術の創始者として知られた坂本孫四郎の娘にあたる。ゆえあって母は初婚の夫の家を去り、その
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