当局者が人民を信じないことにかけては封建時代からまだ一歩も踏み出していない証拠であるのか、いずれとも言えないことであった。ともあれ、いかに支庁の役人が督促しようとも、このまま山林規則のお請けをして、泣き寝入りにすべきこととは彼には思われなかった。父にできなければ子に伝えても、旧領主時代から紛争の絶えないようなこの長い山林事件をなんらかの良い解決に導かないのはうそだとも思われた。須原《すはら》から三留野《みどの》、三留野から妻籠へと近づくにつれて、山にもたよることのできないこの地方の前途のことがいろいろに考えられて来た。家をさして帰って行くころの彼はもはや戸長ででもなかった。
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第九章
一
八月の来るころには、娘お粂《くめ》が結婚の日取りも近づきつつあった。例の木曾谷《きそだに》の山林事件もそのころになれば一段落を告げるであろうし、半蔵のからだもいくらかひまになろうとは、春以来おまんやお民の言い合わせていたことである。かねてこの縁談の仲にはいってくれた人が伊那《いな》の谷から見えて、吉辰良日《きっしんりょうじつ》のことにつき前もって相談のあったおりに、青山の家としては来たる九月のうちを選んだのもそのためであった。さて、その日取りも次第に近づいて見ると、三十三か村の人民総代として半蔵らが寝食も忘れるばかりに周旋奔走した山林事件は意外にもつれた形のものとなって行った。
もとより、福島支庁から言い渡された半蔵の戸長免職はきびしい督責を意味する。彼が旧|庄屋《しょうや》(戸長はその改称)としての生涯《しょうがい》もその時を終わりとする。彼も御一新の成就《じょうじゅ》ということを心がけて、せめてこういう時の役に立ちたいと願ったばっかりに、その職を失わねばならなかった。親代々から一村の長として、百姓どもへ伝達の事件をはじめ、平生|種々《さまざま》な村方の世話|駈引《かけひき》等を励んで来たその役目もすでに過去のものとなった。今は学事掛りとしての仕事だけが彼の手に残った。彼の継母や妻にとっても、これは思いがけない山林事件の結果である。娘お粂が結婚の日取りの近づいて来たのは、この青山一家に旧《ふる》い背景の消えて行く際だ。
仲人《なこうど》参上の節は供|一人《ひとり》、右へ御料理がましいことは御無用に願いたし。もっとも、神酒《みき》、二汁《にじゅう》、三菜、それに一泊を願いたし。これはその年の二月に伊那南殿村の稲葉家から届いた吉辰申し合わせの書付の中の文句である。お民はそれを先方から望まれるとおりにした上、すでに結納《ゆいのう》のしるしまでも受け取ってある。それは帯地一巻持参したいところであるが、間に合いかねるからと言って、白無垢《しろむく》一反、それに酒の差樽《さしだる》一|荷《か》を祝って来てある。これまでにお粂の縁談をまとめてくれたのもほかならぬ姑《しゅうとめ》おまんであり、その人は半蔵にとっても義理ある母であるのに、かんじんのお粂はとかく結婚に心も進まなかった。のみならず、この娘を懇望する稲葉家の人たちに、半蔵の戸長免職がどう響くかということすら、お民には気づかわれた。そういうお民の目に映る娘は、ますます父半蔵に似て行くような子である。弟の宗太《そうた》なぞ、明治四年のころはまだ十四歳のうら若さに当時名古屋県の福島出張所から名主《なぬし》見習いを申し付けられたほどで、この子にこそ父の俤《おもかげ》の伝わりそうなものであるが、そのことがなく、かえって姉娘の方にそれがあらわれた。お民は、成長したお粂の後ろ姿を見るたびに、ほんとに父親にそっくりなような娘ができたと思わずにいられない。半蔵は熱心な子女の教育者だから、いつのまにかお粂も父の深い感化を受け、日ごろ父の尊信する本居《もとおり》、平田《ひらた》諸大人をありがたい人たちに思うような心を養われて来ている。お粂は性来の感じやすさから、父が戸長の職を褫《は》がれ青ざめた顔をして木曾福島から家に帰って来た時なぞも、彼女の小さな胸を傷《いた》めたことは一通りでなかった。彼女は、かずかずの数奇《すき》な運命に娘心を打たれたというふうで、
「わたしはこうしちゃいられないような気がする。」
と言って、母のそばによく眠らなかったほどの娘だ。
しかし、お民はお民なりに、この娘を励まし、一方には強い個性をもった姑との間にも立って、戸長免職後の半蔵を助けながら精いっぱい働こうと思い立っていた。以前にお民が妻籠《つまご》旧本陣を訪《たず》ねたおり、おばあさんや兄夫婦のいるあの生家《さと》の方で見て来たことは、自給自足の生活がそこにも始まっていることであった。お民はそれを夫の家にも応用しようとした。彼女は周囲を見回した。もっと養蚕を励もうとさえ思えば、広い玄関の
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