だだと知っていた。実に瞬間に、彼も物を見定めねばならなかった。一礼して、そのまま引き下がった。
 興禅寺の門を出て、支庁から引き取って行こうとした時、半蔵はその辺の屋敷町に住む旧士族に行きあい、わずかの挨拶《あいさつ》の言葉をかわした。その人は、福島にある彼の歌の友だちで、香川景樹《かがわかげき》の流れをくむものの一人《ひとり》で、何か用達《ようた》しに町を出歩いているところであったが、彼の顔色の青ざめていることが先方を驚かした。歩けば歩くほど彼は支庁の役人から戸長免職を言い渡された時のぐっと徹《こた》えたこころもちを引き出された。言うまでもなく、村方《むらかた》総代仲間が山林規則を過酷であるとして、まさに筑摩県庁あての嘆願書を提出するばかりにしたくをととのえたことが、支庁の人たちの探るところとなったのだ。彼はその主唱者とにらまれたのだ。たとえようのないこころもちで、彼は山村氏が代官屋敷の跡に出た。瓦解《がかい》の跡にはもう新しい草が見られる。ここが三|棟《むね》の高い鱗葺《こけらぶ》きの建物の跡か、そこが広間や書院の跡かと歩き回った。その足で彼は大手橋を渡った。橋の上から見うる木曾川の早い流れ、光る瀬、その河底《かわぞこ》の石までが妙に彼の目に映った。
 笠《かさ》草鞋《わらじ》のしたくもそこそこに帰路につこうとしたころの彼は、福島での知人の家などを訪《たず》ねる心も持たなかった人である。街道へは、ぽつぽつ五月の雨が来る。行く先に残った花やさわやかな若葉に来る雨は彼の頬《ほお》にも耳にも来たが、彼はそれを意にも留めずに、季節がら吹き降りの中をすたすた上松《あげまつ》まで歩いた。さらに野尻《のじり》まで歩いた。その晩の野尻泊まりの旅籠屋《はたごや》でも、彼はよく眠らなかった。
 翌日の帰り道には、朝から晴れた。青々とした空の下へ出て行って、ようやく彼も心の憤りを沈めることができた。いろいろ思い出すことがまとまって彼の胸に帰って来た。
「御一新がこんなことでいいのか。」
 とひとり言って見た。時には彼は路傍の石の上に笠を敷き、枝も細く緑も柔らかな棗《なつめ》の木の陰から木曾川の光って見えるところに腰掛けながら考えた。
 消えうせべくもない感銘の忘れがたさから、彼はあの新時代の先駆のような東山道軍が岩倉公子を総督にして西からこの木曾街道を進んで来た時の方に思いを馳《は》せた。当時は新政府の信用もまだ一般に薄かった。沿道諸藩の向背《こうはい》のほども測りがたかった。何よりもまず人民の厚い信頼に待たねばならないとして、あの東山道総督執事が地方人民に応援を求める意味の布告を発したことは一度や二度にとどまらなかった。このたび進発の勅命をこうむったのは、一方に諸国の情実を問い、万民塗炭の苦しみを救わせられたき叡旨《えいし》であるぞと触れ出されたのもあの時であった。徳川支配地はもちろん、諸藩の領分に至るまで、年来|苛政《かせい》に苦しめられて来たもの、その他子細あるものなどは、遠慮なくその旨《むね》を本陣に届けいでよと言われ、彼も本陣役の一人として直接その衝に当たったことはまだ彼には昨日のことのようでもある。彼半蔵のような愚直なものが忘れようとして忘れられないのは、民意の尊重を約束して出発したあの新政府の意気込みであった。彼が多くの街道仲間の不平を排しても、本陣を捨て、問屋を捨て、庄屋を捨てたというのは、新政府の代理人ともいうべき官吏にこの約束を行なってもらいたいからであった。
 小松の影を落とした川の中淵《なかぶち》を右手に望みながら、また彼は歩き出した。彼の心は、日ごろから嘆願書提出のことに同意してくれているが、しかし福島支庁の権判事《ごんはんじ》がかわりでもしないうちはだめだというらしいあの寿平次の方へ行った。
 彼は言って見た。
「相変わらず、寿平次さんは高見の見物だろうか。」
 彼の心は隣家伏見屋の伊之助の方へも行った。
「伊之助さんか。あの人は目をつぶっておれと言う。このおれにも――見るなと言う。」
 彼の心はまた、村の万福寺の松雲和尚の方へも行った。
「和尚さまと来たら、用はないと言うそうな。」
 しかし、彼はあの松雲たりとも禅僧らしく戦おうとはしていることを知っていた。
 五月の森の光景は行く先にひらけた。檜《ひのき》欅《けやき》にまじる雑木のさわやかな緑がまたよみがえって、その間には木曾路らしいむらさきいろの山つつじが咲き乱れていた。全山の面積およそ三十八万町歩あまりのうち、その十分の九にわたるほどの大部分が官有地に編入され、民有地としての耕地、宅地、山林、それに原野をあわせてわずかにその十分の一に過ぎなくなった。新しい木曾谷の統治者が旧尾州領の山地を没取するのに不思議はないというような理屈からこれは来ているのか、郡県政治の
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