、お民と共にその日を待ち受けた。今は半蔵も村方一同の希望をいれ、自ら進んで教師の職につき、万福寺を仮教場にあてた学校の名も自ら「敬義学校」というのを選んで、毎日子供たちを教えに行く村夫子《そんふうし》の身に甘んじている。彼も教えて倦《う》むことを知らないような人だ。正香の着くという日の午後、彼は寺の方から引き返して来て、早速《さっそく》家の店座敷に珍客を待つ用意をはじめた。お民が来て見るたびに、彼は部屋《へや》を片づけていた。
旧宿場三役の廃止以来、青山の家ももはや以前のような本陣ではなかったが、それでも新たに布《し》かれた徴兵令の初めての検査を受けに福島まで行くという村の若者なぞは改まった顔つきで、一人《ひとり》の村方惣代《むらかたそうだい》に付き添われながらわざわざ門口まで挨拶《あいさつ》に来る。街道には八月の日のあたったころである。その草いきれのする道を踏んで遠くやって来る旅人を親切にもてなそうとすることは、半蔵夫婦のような古い街道筋に住むものが長い間に養い得た気風だ。
お民は待ち受ける客人のために乾《ほ》して置いた唐草《からくさ》模様の蒲団《ふとん》を取り込みに、西側の廊下の方へ行った。その廊下は母屋《もや》の西北にめぐらしてあって、客でも泊める時のほかは使わない奥の間、今は神殿にして産土神《うぶすな》さまを祭ってある上段の間の方まで続いて行っている。北の坪庭も静かな時だ。何げなくお民はその庭の見える廊下のところへ出てながめると人気《ひとけ》のないのをよいことにして近所の猫《ねこ》がそこに入り込んで来ている。ひところは姑《しゅうとめ》おまんの手飼いの白でも慕って来るかして、人の赤児《あかご》のように啼《な》く近所の三毛や黒のなき声がうるさいほどお民の耳についたが、今はそんな声もしないかわりに、庭の梨《なし》の葉の深い陰を落としているあたりは小さな獣の集まる場所に変わっている。思わずお民は時を送った。生まれて半歳《はんとし》ばかりにしかならないような若い猫の愛らしさに気を取られて、しばらく彼女も客人のことなぞを忘れていた。彼女の目に映るは、一息に延びて行くものの若々しさであった。その動作にはなんのこだわりもなく、その毛並みにはすこしの汚れもない。生長あるのみ。しかも、小さな獣としてはまれに見る美しさだ。目にある幾匹かの若い猫はまた食うことも忘れているかのように、そこに軽やかな空気をつくる。走る。ころげ回る。その一つ一つが示すしなやかな姿態は、まるで、草と花のことだけしか思わない娘たちか何かを見るように。
その辺は龍《りゅう》の髯《ひげ》なぞの深い草叢《くさむら》をなして、青い中に点々とした濃い緑が一層あたりを憂鬱《ゆううつ》なくらいに見せているところである。あちこちに集まる猫はこの苔蒸《こけむ》してひっそりとした坪庭の内を彼らが戯れの場所と化した。一方の草の茂みに隠れて、寄り添う二匹の見慣れない猫もあった。ふと、お民が気がついた時は、下女のお徳まで台所の方から来た。その庭にばかり近所の猫が入り込むのを見ると、お徳は縁先にある手洗鉢《ちょうずばち》の水でもぶッかけてやりたいほど、「うるさい、うるさい。」と言っていながら、やっぱり猫のような動物の世界にも好いた同志というものはあると知った時は、廊下の柱のそばに立って動かなかった。ちょうど、お粂《くめ》も表玄関に近い板敷きの方で織りかけていた機《はた》を早じまいにして、その廊下つづきの方へ通って来た。そこはお民やお粂が髪をとかす時に使う小さな座敷である。その時、お民は廊下の離れた位置から娘の様子をよく見ようとしたが、それはかなわなかった。というのは、お粂は見るまじきものをその納戸《なんど》の窓の下に見たというふうで、また急いで西側の廊下の方へ行って隠れたからで。
「あなた、ようやくわたしにはお粂の見通しがつきましたよ。」
と言って、お民が店座敷へ顔を出した時は、半蔵は客の待ちどおしさに部屋《へや》のなかを静かに歩き回っていた。お民に言わせると、女の男にあう路《みち》は教えられるまでもないのに、あれほど家のおばあさんから女は嫁《とつ》ぐべきものと言い聞かせられながら、とかくお粂が心の進まないらしいのは、全くその方の知恵があの子に遅れているのであろうというのであった。もっとも、その他の事にかけては、お粂は年寄りのようによく気のつく娘で、母親の彼女よりも弟たちの世話を焼くくらいであるが、とも付け添えた。
「何を言い出すやら。」
半蔵は笑って取り合わなかった。
どうして半蔵がこんなに先輩の正香を待ったかというに、過ぐる版籍奉還のころを一期とし、また廃藩置県のころを一期とする地方の空気のあわただしさに妨げられて、心ならずも同門の人たちとの往来から遠ざかっていたからで。それ
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