いらが暗くなって来るらしい――暗い、暗いッて、よくそんなことを言いましてね。」
 お民は夫の健康が気にかかるというふうに、それを三郎に言って見せた。じっと盤をにらんだ益穂の長考はまだ続いていた。そこへ月を踏んで来る人の足音がした。お民はその足音で、すぐそれが夫であることを聞き知った。師匠の帰りと聞いて、益穂も今はこれまでと、手に持つ駒《こま》を盤の上に投げてしまった。
 何げなく半蔵は隠宅に帰って来て二人の弟子にも挨拶《あいさつ》したが、心の興奮は隠せなかった。お民は夫に近く寄ってまず酒くさい息を感じた。
「お民、二階へ燈火《あかり》をつけてくれ。それから、毛氈《もうせん》を敷いてくれ。まだそんなにおそくもないんだろう。こんな晩には何か書いて遊びたい。」
 半蔵はその足で二階の梯子段《はしごだん》を登った。三郎や益穂をも呼んで、硯《すずり》筆《ふで》の類を取り出し、紙をひろげることなぞ手伝わせた。墨も二人の弟子に磨《す》らせた。
「どれ、一つ三郎さんたちにお目にかけるか。」
 と言いながら、半蔵がそこへ取り出したのは、平素めったに人にも見せたことのない壮年時代の自筆の所感だ。それは、水戸浪士《みとろうし》がこの木曾街道を通り過ぎて行ったあとあたり、彼が東|美濃《みの》や伊那《いな》の谷の平田同門の人たちとよく相往来したころにできたものだ。さすがに筆の跡も若々しく、書いてあることもまた若々しい。それを彼は二人の弟子に読み聞かせた。
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天地生[#二]万物[#一]、人為[#二]最霊[#一]也。人之能為[#レ]霊、以[#二]其有[#一レ]霊[#レ]於[#レ]心也。凡物多[#レ]類。野有[#二]千艸[#一]、山有[#二]万木[#一]。一視則均是艸木也。然艸有[#二]蘭菊之芳[#一]、而木有[#二]松柏之操[#一]焉。人亦猶如[#レ]此也。人之能超[#レ]群者、其霊之能勝[#レ]於[#二]衆霊[#一]也。尋常之物、雖[#レ]有[#二]千百[#一]、同此一様、而猶[#三]艸木之無[#二]芳操[#一]者也。卓出之物、有[#レ]一則一、十則十、皆有[#レ]裨[#三]益於[#二]国家[#一]也、猶[#三]艸木之於[#二]松菊[#一]也。惟菊也、松也、一視則直知[#三]其為[#二]秀英[#一]也。人之賢愚以[#レ]心、不[#レ]以[#レ]形、故不[#レ]可[#二]遽見[#一]也。蓋心之霊在[#レ]思。其霊最覚者、思弥遠矣。而愚也非[#レ]所[#レ]敢也。然人心不[#レ]能[#レ]無[#レ]思。而吾性所[#レ]思最多常鬱[#三]陶于[#二]心胸[#一]也。陳[#レ]之、列[#レ]之、以熟[#二]思其所思[#一]、其有[#レ]所[#レ]得乎。吾素微躯、惟守[#二]其業[#一]、仰以事[#レ]親、俯以養[#二]妻子[#一]、則能事畢焉。何其媚[#レ]世求[#レ]容[#レ]之為也。雖[#レ]然、如[#レ]此而生、如[#レ]此而死、焉在[#三]其為[#二]万物之霊[#一]也。竊観[#二]昔人之所[#一レ]為。有[#二]以[#レ]文鳴者[#一]。有[#二]以[#レ]武知者[#一]。有[#二]直諫而死者[#一]。有[#二]忠亮而終始一如者[#一]。有[#二]信義以自守者[#一]。有[#二]私淑而自修者[#一]。有[#二]見[#レ]危致[#レ]命者[#一]。有[#二]良図建[#レ]功者[#一]。有[#二]英断果決見[#レ]過則能改者[#一]。有[#下]苟喪[#二]其人[#一]則失[#二]千載之伝[#一]者[#上]。有[#下]常思[#二]四方之遠[#一]不[#レ]忘[#二]民之細故[#一]者[#上]。有[#下]善察[#二]百世之後[#一]憂[#二]国家之憂[#一]者[#上]。有[#下]禁[#レ]暴戡[#レ]乱能畏[#二]服四方[#一]者[#上]。有[#下]歴[#二]記百世之事[#一]以伝[#レ]于[#二]将来[#一]者[#上]。凡事如[#レ]此。則非[#三]一身之所[#二]能為[#一]也。然則従[#二]吾所[#レ]好者[#一]乎。
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 読みかけて、「しからばすなわち、わが好むところのものに従わんか」の最後のくだりになると、五十余年の数奇な生涯《しょうがい》が半蔵の胸に浮かんで来た。見るもの聞くもの涙の種でないものはなかったようなところすら通り越して、今は涙も流れなかった。


 その晩、半蔵は弟子を相手にして、しきりに物を書いた。静の屋ではまだ行燈《あんどん》しか用いなかったが、その燈火《あかり》では暗かったから、彼は三郎らに手燭《てしょく》を持たせ、蝋燭《ろうそく》の灯《ひ》に映る紙の上に和歌なぞを大きく、しかもいろいろに書いて遊んだ。あるものは仮名《かな》文字、あるものは真名《まな》文字というふうに。それを三郎にも益
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