穂にも分けると、二人は大よろこびで持ち帰ったころは夜もおそかった。そのあとにはむさぼるようにまだ何か書きたい半蔵が残った。その興奮には止め度がなかったので、しまいには彼は二階の燈火を吹き消して階下へ休みに降りたくらいだ。
「あなた、また眠られないといけませんよ。すこし召し上がり過ぎたんじゃありませんか。あなたのお酒は顔色に出ないんだから、はたのものにはわからない。」
 と言って、そばへ寄ったのはお民だ。半蔵は下座敷の内を静かに歩き回ったり、また妻のいるところへ近く行ったりして、
「お民、もう何時《なんじ》だろう。お前にはまだ話さなかったが、さっきお寺から帰って来る時のおれの心持ちはなかった。後方《うしろ》から何かに襲われるような気がして、実に気持ちが悪かった。さっさとおれは逃げて帰った。」
「そりゃ、あなたの気のせいです。あなたはよくそこいらが暗い、暗いなんておっしゃるが、みんな気のせいですよ……平田先生は、こういう時の力にはなりませんかねえ。」
 このお民の「平田先生」が半蔵をほほえませた。彼は思いがけないことを妻の口から聞いたように思っていると、お民は言葉をついで、
「でも、あの先生はありがたい人だって、そのお話がよく出るじゃありませんか。」
「それさ。おれもこれで、どうかすると篤胤先生を見失うことがある。篤胤先生ばかりじゃないや、あの本居宣長翁でも、おれの目には見えなくなってしまうこともある。そのたびに、おれは精神《こころ》の力を奮い起こして、ようやくここまでたどりついたようなものさ。そうだ、お粂《くめ》の言い草じゃないが、神霊《みたま》さまと一緒にいれば寂しくない。こりゃ、おれも路《みち》に迷ったかしらん。もう一度おれは勇気を出して神を守りに行かにゃならん。しかし、今夜は――お前もよいことを言ってくれた。」
 その時、お民は思いついたように、下座敷の小襖《こぶすま》から薬箱を取り出して来た。その中には医師の小島|拙斎《せっさい》が調合して置いて行ってくれた薬がある。本家の母屋《もや》を借りて住む拙斎もちょうど名古屋へ出張中のころであったが、あの拙斎が馬籠を留守にする前に、もしお師匠さまに眠られないようなことがあったらあげてくれと言って、お民のもとに残して置いて行ったのがそれだ。彼女は台所の流しもとへくみ置きの清水や湯のみなぞをも取りに行って来て、その薬を夫に勧めた。
 翌日からの半蔵は一層不思議な心持ちをたどるようになった。彼は床の上に目をさまして見て、およそ何時間ぐらい眠ったということも知らなかった。夢に夢見る心地《ここち》で彼があたりを見回した時は、本家の裏二階の方に日を暮らしている継母やお槇《まき》はもとより、朝夕連れ添う妻のお民までがなんとなく遠くの方にいる人のような気がして来た。
 秋の日のあたった部屋《へや》の障子には、木曾らしい蝿《はえ》の残ったのが彼の目についた。彼はその光をめがけながら飛びかう虫の群れをつくづくとながめているうちに、久しく音信《たより》もしない同門の先輩|暮田正香《くれたまさか》のことを胸に浮かべた。彼はあの正香がそう無造作にできるものが復古ではないと言った言葉なぞを思い出した。ところが世間の人はそうは思わないから、何が『古事記伝』や『古史伝』を著わした人たちの真意かもよくわからないうちに、みんな素通りだ、いくら昨日の新は今日の旧だというような、こんな潮流の急な時勢でも、これじゃ――まったく、ひどい、とあの正香の言ったことをも思い出した。本居平田の学説も知らないものは人間じゃないようなことまで言われた昨日の勢いは間違いであったのか、一切の国学者の考えたこともあやまった熱心からだとされる今日の時が本当であるのか、このはなはだしい変わり方に面とむかっては、ただただ彼なぞは目もくらむばかり。かつての神仏分離の運動が過ぎて行ったあとになって見ると、昨日まで宗教|廓清《かくせい》の急先鋒《きゅうせんぽう》と目された平田門人らも今日は頑執《がんしゅう》盲排のともがら扱いである。ことに、愚かな彼のようなものは、する事、なす事、周囲のものに誤解されるばかりでなく、ややもすると「あんな狂人《きちがい》はやッつけろ」ぐらいのことは言いかねないような、そんなあざけりの声さえ耳の底に聞きつけることがある。この周囲のものの誤解から来る敵意ほど、彼の心を悲しませるものもなかった。
「おれには敵がある。」
 彼はその考えに落ちて行った。さてこそ、妻の耳に聞こえないものも彼の耳に聞こえ、妻の目に見えないものも彼の目に見えるのはそのためであった。
 過ぐる年の献扇《けんせん》事件の日、大衆は実に圧倒するような勢いで彼の方へ押し寄せて来た。彼はあの東京|神田橋《かんだばし》見附跡《みつけあと》の外での多勢の混雑を今だに忘
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