ぜん》とした半蔵が東京を去ったのもこの旅である。とにもかくにも彼は二人の子にあい、その世話になる人々に礼を述べ、知人の家々を訪《たず》ねて旧交を温《あたた》めただけにも満足しようとした。帰路には彼はやはり歩き慣れた木曾街道をえらんで、板橋経由で郷里の方に向かった。旅するものには、いずこの宿場の変遷も時の歩みを思わせるころである。道すがらの彼の心はよく四人の男の子の方へ行った。庄屋風情《しょうやふぜい》ながらに物を学ぶ心の篤《あつ》かった先代吉左衛門が彼に呼びかけた心は、やがて彼が宗太にも正己にも森夫にも和助にも呼びかける心で、後の代を待つ熱いさびしい思いをその四人に伝えたいと願うからであった。ことに彼が未熟な和助を頼みにするというのも、それは彼とお民との間に生まれた末の子というばかりでなく、「和助は学問の好きなやつだで、あれはおれの子だで」とお粂《くめ》夫婦の前でも言って見せたくらいだからであった。せめて末の子だけには学ばせたい、とは彼が心からの願いであったのだ。どうだろう、その子もまた父の心を知らないとしたら。子は母親本位のもので、父としての彼はただ子の内部《なか》を通る赤の他人のような旅人に過ぎないとしたら。
「もうもう東京へ子供を見に行くことは懲りた。」
とは彼が郷里に帰り着いてから家のものに言って見せた言葉だ。
その年の夏は、いよいよ宗太夫婦との別居の履行された時であった。半蔵が和助を見に行って深く落胆して帰って来たというのも、子を思う心が深ければこそだ。隠宅の方へお民と共に引き移る日を迎えてからも、彼は郷里の消息を遠く離れている子にあてて書き送ることを忘れなかった。彼はその小楼を和助にも見せたいと書き、二階から見える山々の容《かたち》の雲に霧に変化して朝夕のながめの尽きないことを書き、伏見屋の三郎と梅屋の益穂《ますほ》とが本を読みに彼のもとへ通《かよ》って来るたびによく和助のうわさが出ることを書き、以前に伊那南殿村の稲葉家(おまんの生家《さと》)からもらい受けて来た杏《あんず》の樹《き》がその年も本家の庭に花をつけたが、あの樹はまだ和助の記憶にあるだろうかと書いた。時にはまた、本家の宗太も西|筑摩《ちくま》の郡書記を拝命して木曾福島の方へ行くようになったが交際交際で十円の月給ではなかなか足りそうもないと書き、しかし家の整理も追い追いと目鼻がついて来たことを書き、この家計の骨の折れる中でも和助には修業させたい一同の希望であるからそのつもりで身を立ててくれよと書き、どうかすると娵女《よめじょ》のお槇《まき》が懐妊したから和助もよろこべというようなことまで書いてそばにいるお民に笑われた。
「そんな、あなたのような、お槇の懐妊したことまで東京へ知らせてやるやつがあるもんですかね。」
これには彼も一本参った。しかし古い家族の血統を重く考える彼としては、青山の血を伝えにこれから生まれて来るもののあるその新しいよろこびを和助にまで分けずにはいられなかった。そんなおとなの世界をのぞいて見るようなことが、どう少年の心を誘うであろうなぞと想《おも》って見る暇もないのであった。和助もあれで手紙を書くことはきらいでないと見えて、追い追いと父のもとへ便《たよ》りをしてよこす。それが学校の作文でも書くように半紙に書いてあるのを彼は何度も繰り返し読み、お民にもまた読み聞かせるのを何よりの心やりとする。彼は遠く離れていながらも、いろいろと和助を教えることを怠らなかった。手紙はどういうふうに書くものだとか、本はどういうものを読むがいいとかいうふうに。
やがて成長《ひとなり》ざかりの子が東京の方で小学の課程を終わるころのことであった。半蔵は和助からの長い手紙を受け取った。それには少年らしい志望が認《したた》めてあり、築地《つきじ》に住む教師について英学をはじめたいにより父の許しを得たいということが認《したた》めてある。かねてそんな日の来ることを憂い、もし来たらどう自分の子を導いたものかと思いわずらってもいた矢先だ。とうとう、和助もそこへ出て来た。これまで国学に志して来た彼としては、これは容易ならぬ話で、彼自身にはいれなかった洋学を子にやらせて見たいは山々ではあったが、いかに言っても子は憐《あわれ》むべき未熟なもので、まだ学問の何たるを解しない。彼が東京の旅で驚いて来た過渡期の空気、維新以来ほとほと絶頂に達したかと思われるほど上下の人の心を酔わせるような西洋|流行《ばやり》を考えると、心も柔らかく感じやすい年ごろの和助に洋学させることは、彼にとっては大きな冒険であった。この子もまた時代の激しい浪《なみ》に押し流されて行くであろうか。それを思うと、彼は幾晩も腕組みして考えてしまった。もっとも、結局和助の願いをいれたが。
本家土蔵の二階の上、あの静
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